しぶしぶと言う感じで認めた秋葉であったが、一度決めた以上はその後何ら
異を唱える事は無かった。ときどきは病室に顔を出して言葉を交わす事もあっ
たが、先輩がおとなしく療養していた事も有り、特に大事になる対立なども起
こらなかった。
琥珀さんも翡翠も当たり前のようにシエル先輩の世話をしてくれていた。

そんなこんなで平穏に3,4日経った休日の昼前。

「じゃあ、志貴さん、すみませんけど留守中のことお願い致しますね」

琥珀さんが申し訳なさそうな顔で言う。

「気にしないでよ。別に何かする訳でもないし。むしろお出掛け前に余計な世
話までかけちゃって申し訳ないのはこっちだよ、琥珀さん」

琥珀さんはいえいえと手を振る。

「それにしても、着物姿じゃない琥珀さんて凄く新鮮だなあ」

ワンピースに薄手のカーディガンという何という事はない普通の格好だけど、
琥珀さんが着ていると何だか特別に見える。

「おかしいでしょうか?」
「何言ってるんだ、よく似合ってるよ。普段とのギャップもあって余計に引立
つ。変な言い方だけどそんな格好だと普通の女の子みたい」
「普通ですか」

妙に感心した顔で琥珀さんが小首を傾げる。
正確に言うと、その上に凄く可愛い、とかきれいなとかつけなくちゃいけな
いと思うけど。

「翡翠もよく似合っているよ」

いつものように傍らで口を挟む事無く控えていた翡翠が、急に話を振られて
驚いた顔をする。そして俺と目を合わせて困ったように下を向いてしまう。
顔が微かに赤くなっている。

「私が着ないと、翡翠ちゃんが着替えてくれませんから」
色違いではあるが、琥珀さんと同じ格好を翡翠もしている。
双子なんだから同じように見えてもおかしくないが、まるで違う感じがする。
二人とも良く似合っているのは確かなんだけど。

「私は、普段の格好の方が落ち着くのですけど……」

ぽそぽそと翡翠が言葉を紡ぐ。

「ええっ、志貴さんも似合ってるって誉めてくれてるんだよ」
「そうだよ。せっかく珍しくお休みで姉妹揃って出掛けるんだから、そっちの
格好の方が絶対いいよ」

土日祝日関係なく同じような格好で屋敷内にいる二人であるが、今日は琥珀さ
んの用事とやらで珍しく二人で半日ほど出掛けるそうだ。
掘り出し物がどうとかで琥珀さんが珍しく興奮すらしていた。何の気なしに何
処へ行くのか訪ねたら笑ってごまかされて、後は詳しくは聞いちゃまずいと
思わせる雰囲気を漂わせていたけど。

「あとせっかくですから、志貴さんの冬物の服とかも見てきますね。本当は好
みもありますし一緒にお出掛け頂けると嬉しいんですけど」
「うーん、まかせるよ。琥珀さんのセンスの方が上だから。どうせ俺なんか何
着ても同じだしね」

呼んでいた車に乗ると二人は出掛けていった。
琥珀さんが振り返ってにこにことしながら手を振っている。
車が姿を消すまでぼうっと眺めていた。いつもと逆だなとか思いながら。

秋葉は休日だというのに、学校の用事とかで既に朝から出掛けてしまっている。
と言う訳で今この家にいるのは俺とシエル先輩のみ。
くどくどと頼まれたのは、お昼ご飯をシエル先輩に食べさせる事だった。
別に料理しろという訳ではなく既に用意しておいてくれているそうで、どの
みち自分だって食べるんだから一緒に取れば別にどうと言う事もない。

「シエルさんも退屈でしょうから、お話しのお相手でもなさったらどうですか?」

ちょっと悪戯っぽい笑みで琥珀さんはそんな事を言っていた。
シエル先輩と一つ屋根の下にいるものの、秋葉たちの目もあるし、足しげく
病室に通ってはいたが、あまり二人きりで言葉を交わす機会を見出せずにいた。
もしかして気を使ってくれたのかな?
翡翠もいつになく屋敷の外へ出るのを躊躇せずに琥珀さんの言葉に従っていたし。

時計を見るともう11時過ぎ。
休日とあって惰眠を貪ってごろごろしていたからなあ。
さっそくシエル先輩の顔を拝みに行くとしよう。

「そう言えば、こうやって療養していて思ったんですけどね……」

とりとめのない会話の中で、ちょっと言葉を途切らせてシエル先輩が言った。

「こんなに遠野くんが優しくしてくれるんなら、たまには怪我するのも悪くな
いかな、なんて」

ちら、とこちらを見て、しまったという表情をする。

「冗談ですよ、遠野くん。怒らないで下さい」
「冗談でもやめてくれよ。凄く心配したんだから。あ、でもそもそも俺を助け
ようとしてくれたんだよな。ごめん、怒るの筋違いだよな」
「ううん、むしろ嬉しいです。私も軽率でした。自分の体を省みなくなってい
る昔の癖が残ってて、いけませんよね」

ちょっと気まずい、というかむずかゆい雰囲気。
なんか、話を変えてと思っていると、先にシエル先輩が俺の背後の扉に目を
やって言う。

「それはそうと、お腹が空きましたね」
「そうそう。忘れてた。お昼ご飯にしようか。琥珀さん特製のカレーライス」

その言葉にシエル先輩の顔がぱっと輝く。

シエル先輩の尋常でないカレー偏愛は琥珀さんもよーく知っていたし、昼の
面倒を見るのが俺だという事を考えてカレーライスにしてくれたのだ。
普段はカレーなんか料理じゃないくらいの事は言っているのだけれども。

「カレーライスなら、志貴さんが片手でも食べさせやすいですから」

そんな気遣いを見せてくれていた。
昼食なんかだからそんな手の込んだ物でなくても良いのに、カレーライスに、
定番の福神漬けや、刻みらっきょう、ナッツの砕いたやつ等の薬味のお皿が
添えられているのはもちろん、トマトサラダ、じゃがいもを裏濾しして作った
冷たいスープなどが色を添えている。

「それにしても、琥珀さん料理お上手ですよねえ」
「うん、本当に凄い腕前だと思う」
「遠野くん、いつもこんな料理食べてるんですよね。いいですねえ」
「そうだね。あ、そう言えば琥珀さん、先輩に料理作るの喜んでいるみたい」
「そりはまた、なんでです」
「普段が俺も秋葉も少食で、美味しいけどそんなに量は食べないし、翡翠は……、
ええと、いろいろあって、張り合いがないらしいんだ。先輩は喜んで何でもい
っぱい食べてくれるから腕の振るい甲斐があります、とか言ってた」
「……ちょっと、恥ずかしいです」
「それと、あれだけお食べになっていて、あのプロポーション保ってるなんて
いったい何をやってるんでしょうか、とか聞かれたっけ」
「……」

小振りの電気釜からご飯をよそって、保温器に乗せられた鍋の中でコトコト
いっているカレーをかける。

「まだまだいっぱいあるからね」

それでも心持ち先輩の皿を大盛りにする。
なんでもカレーに使うスープ(単なる水じゃないとの事)は昨日からダシを
取ってクツクツ煮込んでいたそうだ。有間の家にいた時に自分で作ったインス
タントルーを使ったカレーとは色も匂いも湯気の出方さえ次元が違うような気
がする。

そう言えば前にカレーライスが食べたいとリクエストした時、「どんなカレー
がお好みですか?」と聞かれて「ジャガイモがごろごろしてるやつ」と答え
て琥珀さんを2,3秒沈黙させた事があったっけ。
あれは「玉ねぎを大量に炒めたのをベースにして極力水を使わないで仕上げ
たチキンカレー」とか「牛筋がとろけるまで、他の野菜は全部溶けるまで煮込
んで、ルー自体のコクを重視して云々」とか言えばよかったのだろうか、未だ
に良く分からない。
その時作ってくれたカレーは注文通りで、十二分に堪能できたのだけど。

「じゃあ、いただきます」

とりあえず、すがるような瞳でこちらを見ているシエル先輩を優先。

「はい、先輩、あーん」

恥ずかしそうな顔をしてがらも、あーんと口を開けるシエル先輩。
一匙のカレーを口の前に差し出すと、ぱくりと口にしてゆっくりと味わっている。
先輩の心底幸せそうな顔に、こちらも嬉しくなる。

どれ、と今度は自分のスプーンを取って口に運ぶ。
これは……、美味い。
いつものとは全然違った味だけど凄く美味しい。機械的にもう一口頬張る。
何と言うか味云々以前に口にした時の香りが多層的な感じだ。

「うーん、なんだろ、これ」

味わいの妙に、さらにとスプーンを動かし口に運びかけて、じーっとこちら
を見つめているシエル先輩の視線に気づく。

「……遠野くん、自分ばっかりずるいです」
「ご、ごめん。あまりに美味しくて思わず没頭してた。はい、シエル先輩」

慌てて先輩に一匙のカレーを差し出す。
あ、これ俺のスプーンだ。
先輩は気にせず口にしている。

「あの、先輩、スプーン一緒のでもいいかな?」

いちいち持ち替えるのが結構面倒くさい。
陶酔の表情を浮かべていた先輩が夢から醒めたような顔でこちらを見る。

「は? は、はい。私はかまいませんけど……」

お言葉に甘えて、スプーンを共用して交互にカレーを味わう。

3分の1くらい食べたところで水が欲しくなる。
グラスの冷水を一息に飲む。喉に心地よい。

「シエル先輩も水飲む?」
「いただきます」

グラスを先輩の唇に当てて、少しずつ傾ける。
シエル先輩の喉がこくこくと動いて水は消えた。

「美味しいけど、後からけっこう辛くなってくるね」
「すみません。遠野くん、辛いの駄目でしたか? 私のリクエストなんです」
「いや、大丈夫だよ。辛いカレー食べて水飲むのも美味しいし。やっぱり琥珀
さん『どんなカレーがお好みですか、シエルさん?』とか聞いたのかな?」
「はい。何日か前に私が昔教わったレシピを教えたんです。チーズを上手く使
って最初は辛さを消し去るんですけど、その口当たりは……」

しまった。
シエル先輩のカレー蘊蓄が始まってしまった。
これ始まると長いんだ。店の比較とか玉葱の炒め方がどーとかの話ならまだ
分かるんだけど、香辛料の種類だの調合だのの話になると、ちょっと化学の講
義でも聞いているみたいで理解の範疇を超えていて、ついていけない。

「……と言う訳です。こういう料理人を抱えていると言うだけでどれほど恵ま
れているか分かりますか、遠野くん」

別に琥珀さんは料理人と言う訳では。まあ取敢えずシエル教授のカレーのレ
シピから始まって文化人類学の講義を経て、ひとくさり吸血鬼全般に対する糾
弾と特定の姫君に対する誹謗を挟んで、遠野家の台所事情に至ったお話が終了。
その間に別に食べるのが止まっていた訳ではなく、いつの間にか電子ジャーの
ご飯も厚鍋のカレーもほぼ終わりになっていた。

「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」

大きめの水差しも二人のグラスに注ぐと残りは無くなってしまった。
それにしても美味しかった。いつに無く食べ過ぎたかもしれない。
先輩も満ち足りた表情をしている。
皿を重ねてキッチンワゴンの上に置く。
食休みと言う訳でもないが、二人して特に話に熱中するでもなく、ぼんやり
と何もしない時間を過ごす。陽も穏やかで、こんなのんびりした一時も悪くな
いなあと思う。
どうしてもシエル先輩とは、学校にいる時はともかくそれ以外で顔を合わせ
る時は、こちらが先輩に会いに行くにしても、シエル先輩が来てくれるにして
も、どこか日常と言うより特別なイベントといった感覚があって、こんな風に
ただ二人してまったりと無為に時を過ごす事は少ない。

あ、そうだ忘れてた。
シエル先輩にちょっと待っててと声を掛けて食堂に向かう。
その前にちょっとトイレに寄る。水の飲み過ぎかな。
シエル先輩の処に向かう前に仕掛けて置いたコーヒーメーカーが具合良くなっ
ている。
カップと一緒にお盆に載せて部屋に戻る。

「お待たせ。コーヒーいれたんだ。先輩はブラックだったっけ?」
「そうですね。今日は少しだけミルクを入れて下さい。ちょっと香り付け程度で」
「熱いから気をつけてね」

カップを口元に近づけるとシエル先輩は器用にすすり込む。

「良い香りですね。遠野くんがいれてくれたんですか?」
「一応、手で豆轢いてるんだ」

また二人して特に意味の無い、でも良い雰囲気の時を過ごす。


小一時間程経っただろうか。
会話が途切れがちになり、どうしたのだろうとシエル先輩を見つめる。
シエル先輩の顔が心なしか曇っている。

「あの、遠野くん。琥珀さんも翡翠さんもまだお戻りになりませんか?」
「うん。あと1時間もすれば戻ると思うけど」
「1時間ですか……」

シエル先輩が困った顔で宙に目をさ迷わせたり、俺をじっと見たりする。

「あの、遠野くん、その……」

何度かためらった挙句、先輩が言葉を紡ぐ。

「どうしたの、具合でも悪いの、先輩?」
「いえ、そうではなくて……」

かぶりを振って笑顔を見せかけ、途中で絶望感あふれる表情に変わる。

「先輩、どうしたんだ。何が起こって……」
「……トイレに」
「え?」
「トイレに行きたいんです。そのお水を飲み過ぎたみたいで……」

 

                                            〈続く〉