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――嘘
その一言共に志貴の頭の中から、ざぁぁぁと血の気が引く。嘘。確かに嘘で
あって欲しかったが、どうにもこれが現実であるというのは動かしがたい事実
であるようだった。
見る間に志貴の顔色は真っ青になり、部屋の中を行ったり来たりを繰り返す
志貴の足下がふらつき始める。
「遠野くん!しっかりしてください!!」
シエルがそう呼びかけるが、志貴の頭と身体はぐらぐらと揺れ動き、そのま
ま傾ぐと……ぐったりと床に崩れ落ちる。シエルが姿見を離して駆け寄ると、
大きな音を立てて姿見は床に倒れ込む。
シエルが慌てて志貴を助け起こした。
「遠野くん!……あ――」
背中を抱き起こすと、志貴の幼い頭がそのままがくんと顎をのけぞらせる様
にして傾く。首筋のみならず、シエルの手には志貴の身体のどこにも力が籠もっ
ていないことを察した。
志貴の目は再び閉ざされている。今の様子は有り体言えば――気絶していた。
だが、今の状況ではむしろこうやって気絶できてしまえば、幸いでもある。
なにしろ志貴が慌てふためいても何も解決には繋がらないのだから。
シエルも、志貴が不意に気絶したことでむしろほっとしていた。このまま現
実の急変を受け入れられない志貴が心に異常を来してしまう可能性もあり、そ
うなるのであればいっそ当て身をくれて気絶させようかとも考えていたのだから。
「……さて、これからどうしましょう」
シエルは志貴の身体を抱き上げると、ベッドに向けて運ぶ。
志貴の身体を抱えることはシエルには今までも何度かあったが、今の志貴は
その時からはまるで変わり果ててしまっていた。体重は軽く、らくらくとベッ
ドに運ぶ事が出来る。
そうしてシエルに運ばれる間、志貴は身動き一つしなかった。だが、その寝
顔は幸せそうとは到底言えそうにない。
§ §
目を覚ました志貴は、寝台から立ち上がる気力を失っていた。
まるで病人のような顔色で横たわり、ベッドの側に椅子を引きつけて座るシ
エルを見つめている。志貴の中では、色々な考えが渦巻き、まとまりを得てい
ない。
日本にどうやって帰るのか、学校はどうするのか、身分証明はどうするのか、
翡翠や琥珀になんといったらいいのか、どんな顔をしたらいいのか。
それよりも何よりも、愛する秋葉は――この変わり果てた自分をどんな目で
眺めるのだろうか?そのことを思うと居たたまれなくなる。
シエルはそんな志貴を眺めながら、なぜ志貴がこのようなことになったのか、
を説明していた。説明される方が要領を得ているようには見えなかったが、シ
エルにしても説明しないわけには行かない。
「……というわけでして、遠野くんは……」
シエルが駆けつけた時には、志貴は絶命して枯れ葉の寝床に横たわっていた。
それは秋葉を救うためだと知ったシエルであったが、すでに息絶えた志貴を前に
その場では策がなかった。
だが、志貴の意識だけは保持できる――かつて一度「死んだ」事がある志貴は、
その意識の構造が常人とは異なることをシエルはすぐに理解した。肉体的な死と
精神的な死、魂魄の存在のリンクが浅い志貴の、超能力者故の異形の魂……シエ
ルは、その一点に蘇生の可能性を掛けた。
「……でも、あっちの設備だけじゃ遠野くんの蘇生は不可能だったのです……」
十分な魔術的な資産の元で蘇生を行うべく、シエルは志貴の意識体を封印し
てイタリアの教会施設まで輸送したのであった。埋葬機関の魔術的資産とシエ
ルの莫大な魔力を以てすれば、蘇生は不可能ではない。
不得手な少年死徒であるメレム・ソロモンにまで頭を下げて呪物をかき集め
たシエルであったが、いざ志貴の蘇生に当たって障害にぶつかったのであった。
「……遠野くん、これまで生きてこれられたのが不思議な身体だってんですね」
一度は死の一線をこえ、秋葉の共融によって生きていた志貴。さらには超能
力者としての「回路」が開ききった、死に限りなく近い異常な身体。たとえ意
識が残っていても、このような奇怪極まる志貴の身体を以て復活させるのは、
神ならぬ身では不可能であった。
蘇生させるべき肉体の器そのものが、復活を妨げる障害になる――ジレンマ
であった。
それを回避するためには、ただ一つ
「――遠野くんの身体を再構成して、回路が開く前の上体に戻すしかなかった
んです」
シエルはなんでもないように言うが、16歳の人間の身体を8歳に再構成す
る、というのは並大抵の技ではない。埋葬機関の呪的資産とシエルに蓄積され
た稀代の魔術師・ロアの記憶、それに莫大な魔力があって初めてそれは可能に
なった。
「……というわけで、遠野くんの今の身体は、あの事件が発生する前の、8年
前の身体なんです。こうするのが一番、理の通った蘇生法だったんです……幸
い、施術は成功しました」
かくして、志貴が目覚めた時にはすでに8歳の少年の身体になっていたので
ある。
そうは聞かされても志貴には、納得こそ出来るが承伏はしかねるものがあっ
たが――すべては後の祭りである。
「……遠野くん?その、分からないところがあれば……」
「わからないことだらけだよ、先輩……でも」
志貴は枕の上で頭を動かし、シエルの顔を見つめる。
シエルは説明を一通り終えある程度の満足を得ていたが、晴れぬ志貴の表情
を目にしてやはり明るい顔はしていなかった。魔術的には歴史に残るほどの大
成功であったが、肝心の志貴はこの有様であったのだから。
「……どうぞ」
「……その、有り難う」
ぽつり、と志貴は口にする。ただ、感謝の色を顔に浮かべ、と言うわけでは
なくいろいろ困じた果てに、言って置かなくてはいけないことを思い出したか
のような口調。
志貴の顔も明るくない。だが、枕に頭を預けたままで話し始めるその顔を、
シエルはじっと見つめていた。
「怒ってないんですか?遠野くん」
「……いや、怒るというのはお門違いだろ、先輩。先輩がこうしてくれなかっ
たら俺は……死んでいたわけだし」
志貴はもぞりと寝相を変えると、話を続ける。
「死ぬのは……俺にとって初めてじゃないけど、何度も死にたいものじゃない。
それに、あの時はそうは思わなかったけども、やっぱり思い残すことがあるし」
シエルは僅かに眼鏡の蔓を直し、話を聞く。
「それに話を聞くと、先輩は俺のためにそんなにまでいろいろしてくれたんだ
から、有り難うの一言では済まないほど、感謝している」
「……そう、言ってもらえると助かります」
シエルは志貴の言葉を聞き、そっと安堵の吐息を漏らしながら言った。
普通の人間ならもっと半狂乱になるはずであったが、この辺は志貴の不思議
な恬淡さであった。シエルは改めて、そんな不思議な志貴の在り方に感心する。
志貴はそんなシエルから目を離し天井を見上げて、尋ねる。
「先輩……それで、さっきも聞いたんだけど」
「……はい?」
「これ……どうにもならないの?」
志貴は毛布の中から腕を伸ばし、ヒラヒラと振ってみせる。
剥き出しの子供の手。傷一つなく柔らかそうな肌であったが、志貴の言いた
いのは――もちろん元の身体に戻れないのか、ということであった。
シエルは背筋を伸ばし、改まった表情で答えた。
「……今のところ、復元への良策がありません。遠野くんの身体を急速に加齢
するということは可能ですが……」
「……なにか、悪いことがあるの?」
「例えば、6ヶ月で8年分を加齢したとします。でも、1年後には16年、2
年後には24年、3年後には28年……一遍加速を掛けると、それを戻すのが
厄介なんです」
「げ、19歳で36歳の身体か……それはぞっとしないな」
少年に戻ってしまった志貴も予想外であったが、逆に若くしてで四十路前の
身体になると言うのは避けたい事であった。それであれば、少年の身体である
方が救いがある。
「その辺を安全にしようとすると、結局は7年掛けて8年加齢する、みたいな
感じになっちゃいますから」
「……なるほど。じゃぁ、この身体を作り替えるのは?」
志貴の提案に、シエルは残念そうに頭を振る
「元々の遠野くんの身体から今の身体を造躯しましたから、もう一回というの
は……それに、今の遠野くんを作り替えるとなると、もう一回死んでもらうこ
とになりかねません」
「……別の身体に、というのも?」
「一時の受け皿ならともかく、安定性に問題があるのでお勧めできません。魂
と肉体は源を同じとするモノ以外は、どうしても……」
シエルの説明を聞き、志貴は溜息をもらす。
復活は遂げたものの、志貴の前途は多難であった。こんな小さくなってしまっ
て、一体どうやって秋葉に会えるものかと思うと、志貴の頭の中には鬱々とし
た考えがたちこめる。
秋葉はこんな俺を見て、果たして再会を祝してくれるのだろうか?
秋葉のことだから、勝手に絶命して命を返し、勝手にこんな風になって帰っ
てきた俺は、許してくれないのかもしれない――
シエルはそんな暗い志貴を見ると、雰囲気を変えようと声を明るくして話し
出す。ぱちんと手を合わせ、志貴の視線を惹きつける。
「でも、この身体になって良いこともありますよ?
まず、身体は8年前の瀕死の怪我を負う前に戻っていますから、健康状態は
飛躍的によくなります。遠野くんの身体と才質ならば、ゆくゆくはオリンピッ
ク出場も出来るくらいに……」
――そんなもんなのかな?
志貴はゆっくりと体を起こし、考える。確かに昔日の志貴は体力がない貧血
少年であったが、それ必ずしも身体能力的な弱さには結びついていなかった。
それはあの胸の傷が原因であり、これさえ良くなれば……シエルの言うこと
もまんざら嘘ではなさそうであった。
「それに、もう気がついていると思いますけども、直視の魔眼は――もうありません」
その言葉は志貴には、不思議と残念そうに聞こえた。
志貴にとっては、何かと厄介であった死の線を見てしまう魔眼。だが埋葬機
関のシエルにとっては、その強力な力がむざむざと失われたことに悔しさに感
じずに入られないのか――と志貴は思う。
そして、今更ながら志貴は、己に眼鏡を掛けていないことに気がつく。
長く慣れ親しんでいたものであるに、あの眼鏡はなによりも――先生と志貴
との絆であった。
「そう……その、先輩、俺の眼鏡は?」
「あ、預かっておきました……はい、遠野くん」
志貴にシエルは答えると、修道衣の隠しの中から皮のケースを取り出す。
志貴が受け取ってケースを開くと、そこには子供用のフレームに作り直され
た眼鏡が入っていた。
フレームを作り替えたのはシエルであった。もっとも魔眼封じの魔鏡という
魔法使いに来歴するこの曰く付きにアイテムに関して、収蔵癖のあるメレム・
ソロモンと一悶着を演じたのであったが――シエルはそんなことまで聞かせる
気はなく口を閉ざしている。
志貴は懐かしそうにそれを取り上げ、顔に掛ける。
もう、眼鏡越しの光景が変わることはなかったが――
「……ああ、秋葉は……」
「……?」
「秋葉は、俺が初めて眼鏡を掛けた頃を……知らなかったんだよな」
誰に聞かせるでもなく志貴が呟く。
シエルは小首を傾げ、志貴の言葉に耳を傾ける。志貴は眼鏡を掛けて体を起
こし、まるで遠くを見るような目つきで部屋の一隅を眺めて、言った。
「これから俺、どうすればいいのかな?先輩?」
「遠野くんの口癖じゃありませんけど……私にも分かりません」
「……だろうな。御免、先輩」
志貴は短く謝ると、口元を引き結んで黙り込む。シエルも掛ける言葉が無く
、二人の居る部屋の中には思い沈黙がたれ込める。
窓の外では小さく鳥が鳴く声が聞こえ、そして――カラーン、カラーンとい
う時鐘が、にわかに部屋の沈黙をうち破る。
「俺は……」
鐘の音は澄みきり、心に染みる。
志貴は、ゆっくりと、ひとことひとことを口に乗せる。
「……秋葉に会わない方がいいのかも知れない」
《つづく》
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