わたしは学校に行く事にした。あのまま両親と一緒に居たら、気が狂いそう
だったからだ。いや、もう気が狂っているのかも知れないけど、まだそれを認
めたくは無かった。
 居間を出るとき、べちゃべちゃと品のない音がした。振り返ると、赤い足跡
が私の後を付けていた。戸を閉じても、やっぱり足跡は付いてきた。暫くそれ
を眺めていたのだけど、どうでも良くなったので無視して風呂場に向かうこと
にした。

 脱衣所で赤く重くなった寝間着を脱ごうとした。固まりかけていた血がぱり
ぱりと剥がれ、私の周りを囲む様にして積もっていく。肌に纏わり付き、寝間
着そのものがわたしの肌の一部になってしまったかの様だ。苛立った私は袖を
掴むと、力任せに引っ張った。すると寝間着はあっさりと引き千切れてしまった。

 この寝間着はお気に入りだったのだけど。
 でも、もう使えなかったろうし、気にする事はないか。

 裸になった私は手に持った布きれを脇に捨て、風呂場に入った。狭い風呂場
には小さな浴槽があって、その上にはシャワーの蛇口があり、入り口のところ
には上半身が写せるだけの鏡が据え付けられている。私はその鏡の前に立った。
髪の毛はべったりと血を含んで貼り付き、額から右半分を覆っている血の痕は
ひび割れて、酷い火傷を負った人みたいだ。下顎からは生乾きの血で真っ赤に
なっていて、まるで私が沢山の血を吐き出したみたいだった。

 そこには見慣れた自分の顔は無くて、まるで知らない、他人の顔だった。
 もちろん血で染まっているという事もあるのだけれど、それよりも。

 私の眼はこんな色ではない筈だ。
 母さんの指に填っていた指輪を思い出す。
 父さんがプレゼントしてくれたと嬉しそうに語っていた。
 本物のルビーが使ってあると言っていた、あの指輪を。
 今鏡に映る、見知らぬだれかの瞳と同じ、真っ赤なあの色を。

 ずきん、と頭に鈍痛が走る。鏡から目を引き剥がして、湯船に手をかける。
両腕も、体も、つま先に至るまで、まるでペンキで満たしたプールにでも入っ
てきたみたいに、真っ赤に染まっていた。その色を見て、またお腹で何かが疼
いた。

 洗わなくては。これでは服が着れない。

 縁をまたいで湯船に入り、コックを捻る。シャワーの口から水が勢い良く噴
き出す。それを見た瞬間、後ろに飛び退いていた。ばしん、と冷たいタイルの
壁が私の背を打つ。僅かに避けきれずに、シャワーの水が左足を濡らす。熱し
た油が跳ねて手にかかった時の、あの痛みが左足を襲う。

「ぃいっ痛っ!!」

 湯船から転がり出て、膝近くまで焼け爛れた左足を抱える。痛みのあまりに
息ができない。肉の焼ける匂いがして、わたしは吐き気を覚えた。


 なぜ? ──流れる水に触れれば、こうなる事は分かっていたというのに。
 ただの水なのに。


 水が湯船を叩く音を聞きながら自分の迂闊さを呪っている自分に気付く。


 なぜ? ──全く自明の事ではないか。
 なぜそんな事を知っているのだろう?──それも自明の事だ。


 私はそんな事知らなかったのに、私はなぜこんな当たり前の事を考えるのだろうか?




 やがて町並みが途切れ、道は町の外れに続く雑木林に囲まれた小道になる。
左右の林からは、鳥や虫、獣達の鳴き声が騒々しく響いてくる。本能だけで生
きている彼らの方が早起きで勤勉なのは、神さまが考えた一流の皮肉なのかも
知れない。彼らの立てる騒々しい音に囲まれながら暫くその小道を行くと、ぽ
っかりと切り取られたみたいに開けた場所に出る。唐突に開けた広場の、その
中に溶け込む古びてくすんだ灰色の長方形。それがわたしの通っている学校だ。
以前は真っ白に塗られていたのだろうその姿も、今では風雨で薄汚れて、所々
ひび割れが走っている。生徒達の間では最近、雨漏りしないという事が、不謹
慎にも学校の不思議のひとつになりつつあった。
 朝もまだ早いためか、まわりに生徒達の姿はない。校門には今鍵を開けたの
だろう、色白でやや茶色がかった金髪の先生が鉄造りの門に取り付いて悪戦苦
闘していた。すっかり錆び付き、少々の事では動きもしない癖にぐらぐらと立
て付けの悪いその門は、つがいの部分から崩れて倒れない内に撤去する予定だ
と、教師達が話していたのを思い出す。校門まではまだ200メートル程ある。
ゆっくりと歩いて行けば、門が完全に開くくらいに着くだろう。
 わたしが近づいていくと、こちらに気が付いたのか、先生は門から手を離し
てぱたぱたと手に付いた錆を払い落とすと、子犬のような人懐っこい笑みを送
ってきた。
「お早う、エレイシア。随分と早いね」
「お早うございます、先生」
 わたしはそう言って先生に微笑んだ。
「先生こそ、随分お早いんですね。当直だったんですか?」
「まぁね。レポートの期限に追われた若い連中が忍び込んで悪さをしないか、
見張り番をしていたって訳だ。この町には娯楽も少ないし、刺激を求めて無茶
をする奴が居ないとも限らないしね」
「御苦労様です」
 私が言うと先生は、他に若い先生が居ないからねぇ、と言ってからから笑っ
た。一頻り笑った後、急に表情を改め言った。
「まぁ、それはいいとして。ここ最近休んでいたみたいだけど、体の方はもう
大丈夫なのかい?」
「ええ、もうすっかり。前よりも調子が良いくらいです」
「そうか。でも、あまり無理しちゃ駄目だよ。そういうのは治り端が肝心なん
だから。それにあまり寝てないんじゃないのか? 目が真っ赤じゃないか」
 ひょいと片方の眉を上げて言う彼に、私は笑って答える。
「大丈夫ですよ。それに今日は、その事もあって学校に来たんですから」
 私の言葉に彼は首を傾げていたが、ふむんと息を吐いて、君がそう言うんな
らね、と肩を竦めた。
「まぁなんだ。ここで立ち話でもなんだし、職員室にでも来なさいな。朝はも
う済ませたのかい?」
 彼の言葉にわたしは首を傾げた。
「ああ、1人じゃ味気ないし、一緒に食べてくれるんなら嬉しいんだけどね。
や、話し相手になってくれるだけでも充分なんだが」
 それとも、何か重要事でも? と聞く先生に向かってわたしは首を振った。
「いえ、早くやってきたのはただの気紛れですし」

 ずきん、と頭が疼く。自宅の居間の光景が瞼の奥にちらつく。喉が鳴る。

「朝食は、家を出るときにもう済ませてきたんですけど……」
 私がそう言うと、先生はがっくりと肩を落とした。
「いえ、お付き合いしますよ?」
 私の言葉に、今度は彼が首を傾げた。
「え? でも、もう朝は食べてきたんじゃないのかい?」
「大丈夫です。わたし、今までお腹一杯になったことないですから」
 そう言って私は彼に向かって微笑んだ。

 確かにあれだけでは全然物足りない。また腹が疼いた。

 彼は困った様な、驚いた様な、あるいは笑っている様な、非常に名状しがた
い表情をしていたが、やがて気を取り直して私に言った。 
「……ああ……それはありがたい。君みたいな子がいてくれたら食も進むとい
うもんだ。お礼に取って置きのお茶をご馳走しよう」
「へぇ?」
「前に言っていた事があるだろう、日本のお茶が手に入ったんだよ。これが中々
に玄妙な味でね」
「あら、それは是非」
 先生はわたしの肩を叩くと校舎に向かって歩き出す。彼の後ろに付いて歩き
ながら、私の目は彼の白いうなじに引き寄せられた。


 唐突に。
 目の前で揺れる白いうなじにかぶり付きたい衝動がわたしの頭を殴り付けた。
 くにゃりと景色が歪み、目の前が赤色に染まる。
 ずきずきと、中で何かが暴れているみたいにお腹が痛む。


 口から悲鳴が漏れそうになるが、私は無理矢理にそれを押さえ込んだ。前を
歩く彼に聞こえない様に呟く。
「わたしは一体どうしてしまったのだろう?」
 知っているにも関わらず、わたしは問わずには居られ無かった。

 テーブルには、スクランブルエッグとかりかりに焼けたベーコンがそれぞれ
の皿にやや多めに盛り付けられ、わたしの目の前には熱いコーンスープと堅め
に焼いたトーストが芳ばしい香りを漂わせていた。食事といってもたいした物
はないんだけどね、と言いながら給湯室から先生が出てくる。
「そんな事ありませんよ。……それにしても備え付けのカセットコンロでよく、
こんな風にトーストが焼けますねぇ……」
 どう見ても、専用のトースターで焼いたとしか思えないトーストを見て、わ
たしは感心した。それを聞いて、わたしの向かいに腰掛けながら先生は目を細
める。
「よく言うだろう? 必要は発明の母ってね。一人暮らしというのはね、色々
と已むに已まれぬ必要が生じるものなんだよ」
「はぁ……」
 そういう物なのだろうか。首を傾げるわたしに、眉を寄せて唸った。
「まぁ、君はまだ親御さんと暮らしているし、こういう事は分からないかも知
れないなぁ。君も一人暮らしを始めたら分かるんだろうが……いや、女の子だ
しなぁ……」
 先生の言葉に、ずきん、と頭が疼いた。また、あの時の光景が思い出される。
喉もお腹も、さっきよりも酷くなっている。
「……あの、先生?」
 唸っている先生に向かって声をかける。
「えっ?」
「食べないんですか?」
「ああ、そうだった。冷める前に食べてしまおうか」
 先生はベーコンとスクランブルエッグを自分とわたしの皿に盛り分けると、
フォークでもってそれを食べ始めた。私も自分の皿によそわれたスクランブル
エッグを口に運ぶ。塩味の利いたベーコンを噛み、トーストを囓りコーンスープ
と一緒に飲み下す。目の前にある物を口に放り込んでは嚥下する。
 どうもおかしい。たしかにお腹が一杯になった事は無かったけれども、食事
という物は、ここまでお腹に貯まらない物だっただろうか? これだけ食べて、
飲んでいるのに。自分がそこの開いた袋になったみたいだ。
 それに喉の渇きも一向に収まらない。収まらないだけではなくて、私が何か
食べる度、何か飲む度に、どんどん渇きが酷くなる。


 腹が痛む。
 私が求めているのはこんな物ではない。
 私が欲しいのは──。


 かちん、という高い音が私を現実に引き戻した。見れば目の前の皿にも、わ
たしと先生の間に置かれた大皿にも、何も残っていなかった。
「底無しってのは、本当なんだねぇ」
 先生の声が耳に届く。頬が熱くなるのが、自分でも分かった。恥ずかしさに
顔を俯ける。
「あ、や、すみません……」
「いやいや、こっちとしても作った甲斐があったというものだよ」
 先生はそう言うと椅子から立ち上がり、皿を重ねだした。わたしは慌てて顔
を上げて言う。
「あ、後片付けは、わたしが……」
 立ち上がりかけたわたしを、先生は片手を上げて押さえる。
「まぁまぁ。食事に誘ったのはこちらだし、ね。今お茶を淹れてくるから、そ
こで待っていなさい」
 そう笑いながら言うと、食器を持って給湯室に向き直る。
 その白いうなじを見た瞬間。


 世界が揺れた。
 痛みがわたしを叩き伏せる。
 上から下から右から左から前から後ろから外側から内側から。
 体が軋む音が聞こえる。何かが割れる音と、先生の声も。
 喉が痛い。お腹が痛い。頭が痛い。
 目の前が赤く、黒く、霞んでいく。
 意識がゆっくりと沈んでいく。

 なんとか顔を上げると先生の顔が見えた。
 それに、ばらばらになった母親と、真っ赤な瞳でこっちを視ている父親の顔
が重なる。
 あの時の匂いと味が口の中に蘇る。

 その時。

 私が何を求めているのか。私が何を欲しているか。彼に何をしようとしてい
るか。彼に何をさせようとしているのか。


 わたしは解ってしまった。


 伏せていた顔を起こす。心配そうにこちらの顔を覗き見る彼の顔があった。
彼の顔を見つめながら身を起こし、椅子から立ち上がる。後ろに身を引こうと
した彼の顔を両手で押さえる。そのまま、彼の瞳を覗き見る。碧色の瞳の奥、
その収縮する瞳孔の奥にある物。絡み取られ、ねじ伏せられ、身じろぎもでき
ぬ程縛り尽くされた何物かを解放するための、その鍵穴を。
 私の手を引き剥がそうとももがいていた彼の腕が、力無くだらりと垂れる。
 私は彼の瞳を見つめる。彼も私の瞳を見つめる。彼の瞳孔がゆるゆると開い
ていく。腕だけでなく、体中が弛緩していく。そんな彼の様子に、顔が綻ぶ。


 私は知っている。只の人間が私に抗う事はできないと。
 わたしは知っている。もう、わたしは私に抗う事はできないと。

                                      《つづく》