慕情 ― 未来への階段 ―

                                   
  稀鱗




屋敷の外は、既に冬。屋敷の庭を冷たい風が通り抜ける。
 空は高く、抜けるような青空だ。
二人しかいなくなった屋敷にひとときの別れを告げる。めったに着ない私服に
着替え、外から屋敷の外観を眺めている。

 「姉さん、秋葉様。行ってまいります。」

 誰の返事も返ってこない屋敷の玄関に向かって翡翠は呟いた。
 あの事件があってから、翡翠が姉と呼んだ琥珀という少女と、翡翠の主の妹
である秋葉という少女が亡くなってからどれ位経ったのだろう。ぽっかりと空
いた屋敷の空間に今も翡翠は二人の幻影を追いつづけていた。翡翠は幾度とな
く、姉の後を追おうかと思ったかしれない。そのことを考えるたびに翡翠の脳
裏に浮かび消えていく人がいた。

「おまたせ。結構待ったせちゃったかな、翡翠。」

振り向くと手には大きな荷物を持ち眼鏡をかけた優しい顔立ちの男の子がいた。
 彼の名は志貴。翡翠の主にして、現遠野家の当主という位置にいる人物だ。

 「ごめん、荷造りするのに手間取っちゃって。それよりも翡翠は荷物はそれ
だけで十分?」
 「はい、志貴さま。特に荷物になるようなものはありませんので。それより
も志貴さま、1泊2日には荷物が多すぎるのではないでしょうか。」

志貴の手には大きな旅行用のバック、肩には軽い荷物を入れておくリュックを
背負っていた。一方の翡翠は、小さなバック一つだけだった。
 今日は、旅行に行く日。しかも、翡翠が初めて屋敷の外で宿泊する日だ。志
貴が旅行に行こうと言い出したのは、冬休みの前日だった。志貴には翡翠を元
気づけたい、束縛から解き放って屋敷の外の世界に連れ出したいという思いが
あった。
旅行の相談をしたとき翡翠はあまり良い顔をしなかった。それは、琥珀や秋葉
の居たこの屋敷を無人にしたくなかったのかもしれない。
旅行には有彦とその姉の一子さんがついて来ることになった。有彦が来るのは
単に旅行の相談をしただけなのだが、一子さんが来ることになったのは有彦が
旅行の話を一子さんにしたとき「たまには羽を伸ばしたいし、それに男二人と
女一人の旅は関心せんな」と一子さんが言ったからだ。ま、保護者みたいなも
のである。

 「翡翠、そろそろ出ないと約束に時間に間に合わなくなるよ。行こう」
 「はい、志貴さま。」

 二人は屋敷の門に向かって歩き始める。翡翠は屋敷の方を振り向いてもう一
度、

 「行ってきます、姉さん、秋葉様。」

 と、挨拶をした。
 志貴の後を翡翠は小走りで追いかける。
 志貴は追いついてきた翡翠に

 「さっき何してたのかな。屋敷の方に向かって、何か言ってただろ。」

 と尋ねた。翡翠は

 「姉さんと秋葉様に“いってきます”と挨拶しただけです。」

 と言った。

「そうか……」

志貴はそれ以上何も言わなかった。志貴も、翡翠と同じように過去を引きずっ
ていた。この旅は翡翠だけでなく志貴自身、過去との決別のために行くことに
したのだ。

屋敷を出て、志貴にとってのいつもの通り道を歩く。志貴達は駅前へと向かっ
ていた。そこで、有彦達と待ち合わせをしている。
翡翠は何も言わずただ志貴の後をつけてくる。周りから見れば、少し変なカッ
プルに見えるだろう。

「翡翠? もう少し横に来てくれないかな。さすがに距離をおいて歩かれると
恥ずかしいんだけど……」

志貴は困惑した顔で翡翠を見た。

「ですが志貴さま。私は志貴さまのメイドですから、横について歩くことは出
来ません。」

翡翠はそう応えた。
志貴は、

「いや………ここは屋敷の中じゃないんだから………。それに、今は翡翠は…
……その……俺の恋人みたいなものだから………。」

志貴は照れくさそうに翡翠に背中を向けた。

「志貴さま………」

翡翠の顔が紅くなっているのが志貴には分かっていた。翡翠は恋愛沙汰には全
くと言って良いほど免疫がない。ちょっとしたことでも顔を紅くすることがあ
る。
志貴は腕に巻かれた腕時計に目を向けた。

「うわっ、もうこんな時間。このままじゃ、待ち合わせの時間に間に合わない。
急ぐぞ、翡翠!」

志貴は翡翠の手を引いて走り始めた。

「し、志貴さま。」

翡翠は困惑しながらも志貴の手を離さずに駆けて行く。



―――――――駅前

「遅いぞ、志貴。お、それがお前の彼女か?。う〜ん、かわいいじゃねぇか。
まったく、うらやましいぜ、このスケコマシ。」
「い、痛てぇ!。は、離せ……この。」

有彦は志貴を捕まえてヘッドロックをかけている。志貴は有彦から逃れようと
じたばたしているがあまりにも決まり過ぎているのではずす事が出来ない。す
ると、

「こら、悪ふざけもいいかげんにしろ!」
「ぐはぁ!」

有彦が吹き飛ぶ。
有彦の後からタバコをくわえた女性が現れる。この女性が一子さんだ。

「悪いね、有間。いや、今は有間じゃないか。志貴と呼べば良いのか。」
「ええ、一子さんもお変わりなく。………えっ!?」

一子は志貴を軽く抱きしめて、耳元で囁いた。

「よほど、つらい目にあったのね、志貴。顔は笑っていても、お前の目は悲し
みに染まっているよ。」

一子は志貴を離して、翡翠の方を向いた。ちょっと翡翠が難しい顔をしている。

「初めましてだな。あたしは一子、乾一子っていうんだ。こっちでのびている
のは有彦、あたしの弟だ。」
「初めまして、志貴さまのお世話をさせていただいております、翡翠と申しま
す。今日は、お誘いいただき有難うございます。」

翡翠は一子に向かってに向かって深くお辞儀をした。

「へぇ、侍女かなにかってわけだ。まぁ、堅苦しいことは無しだ。あたしのこ
とは適当に一子とでも呼んでくれていいよ。」
「それでは、一子さま、有彦さま、よろしくお願いいたします。」
「う〜ん………」

一子はぽりぽりと後頭部を掻きながら、

「気軽に呼んで欲しいんだが。“さま”付けじゃなくてせめて“さん”付けに
してくれないか。」
「俺は、“さま”でいいぜ。“さま”付けで呼んでもらえることなんか滅多に
ないからな。」
「あんたは、黙ってろ!」
「ごふっ!」

何時立ち上がったのか、有彦は再び宙を舞う。
翡翠はどうしたら良いのか困惑顔で一部始終を見ている。

「翡翠、普通に呼んだらいいよ、一子さんってね。さっきも言ったけど、ここ
は屋敷の中じゃないんだから。今日は一子さん達とは友達と思って行こう。」

志貴は翡翠を助けるように語りかける。それでも、翡翠は困った顔をしていた
が、

「志貴さまがそうおっしゃるのなら。それでは、改めまして、一子さん、有彦
さん、よろしくお願いいたします。」
「うん、こっちこそよろしくな。」

一子はそう応えて右手を差し出す。翡翠は少し戸惑った後、軽く一子の右手を
握り返した。
その様子を見て、有彦が腕時計を見ながら、

「さぁ、そろそろ行こうぜ。早くしないと電車に乗り遅れちまうぞ。」
「そうだな、じゃ、行きましょうか、一子さん。ほら、翡翠も早く。」

志貴は翡翠の手を握って、歩いていく。その後ろから、

「ク〜ッ、なんであいつにはあんなにかわいい彼女がいるんだよ。俺も彼女欲
し〜!」

と負け犬の声が聞こえてきた。


志貴たちは、駅で切符を買い、電車の待つホームに上がった。ここに来るまで、
それはもう大変だった。街に出たことのない翡翠が切符の買い方や自動改札口
を知識としては知っているのだが実際に買ったり、通ったりするのは初めてだ
った。そのため結構時間がかかった。(志貴は券売機で指を指したまま翡翠が
固まったときは如何しようかと思った。)
そんなこんなしながらも、目的の電車に乗ることが出来た。向かうは数駅先の
新幹線の乗れる駅。時間にして二十分にも満たないので、4人とも立っている
ことにした。これと言った会話もなく、翡翠は落ち着かない様子で志貴の横に
俯いて、有彦は志貴にちょっかいを出し、一子は電車から見える風景を食い入
るように見ている。

「翡翠?どうしたんだ?」
「志貴さま。………いえ、何でもありません。」

そんな会話も、電車内に流れるアナウンスにかき消された。

「志貴。次の駅で降りるぞ。」
「わかった。翡翠、次の駅で降りるって。逸れないようにね。」

志貴たちの乗った電車が駅の構内に入ってくる。ドアが開くと人が流れ出すよ
うに出てくる。まるで、蜂の巣をつついたようだ。志貴たちも電車から降りて、
階段を上る。

「じゃ、おれは4人分の切符買ってくるわ。ここでまっていてくれい。」

そういうと、有彦はあっという間に走っていってしまった。
残された3人はその場で待つことにした。

「翡翠、大丈夫か?」

少し気分が悪そうにしている翡翠を心配して声をかけた。一子も少し心配そう
に見ている。そんな二人に対して翡翠は、

「大丈夫です。少し人の多さに酔っただけです。ですから、少しすれば慣れる
と思いますので……。」
「そうはいっても、そんなにすぐに慣れるものじゃないよ。こんなことならも
う少し別のルートを考えておいたのにな。」

一子は申し訳なさそうに翡翠の方を見た。

「いいえ、そこまでお手を煩わせるわけには参りません。」

翡翠はもう大丈夫と言う風なそぶりを見せる。

「しかし、気分が悪くなったならすぐに言うんだよ、翡翠。」
「はい、志貴さま。でも、もう大丈夫だと思います。」

そんな会話をしていると有彦が戻ってきた。

「うい〜す、おまたせ。新幹線、次の奴に乗れば丁度いい時間帯に向こうへつ
けるぜ。そんじゃ、駅のホームに行って待っていようぜ。」

今回の旅行のプランは有彦が立てたものだ。だから、有彦に旅のナビを頼んで
いる。

「あと、30分ぐらいか。そこの喫茶店でコーヒーでも飲んでいこうかな。翡
翠はどうする?」
「あ、志貴さまがよろしいのなら。ご一緒いたします。」

翡翠は、少し頬を赤らめて答えた。

「一子さんはどうしますか?」
「ん、あたしはいいよ、あいつの所に行ってるよ。あいつをほっといて、あた
し達だけというわけにもいかないだろう?それに、邪魔しちゃ悪いからな。」

ククク……、と一子さんは笑いを噛み締めながら有彦の行った方へ行ってしま
った。

 呆然とする志貴だったがすぐに我に帰り、

 「…………じゃ、じゃあ、翡翠入ろうか。」
 「はい。」

 志貴は近くの喫茶店に入った。翡翠は志貴に寄り添うようにして入っていっ
た。
店員に二人と言うことを告げると、志貴と翡翠は奥のテーブルへと案内された。

「ご注文はよろしいでしょうか。」

店員が愛想良く聞いてくる。

「コーヒーで、翡翠は何にする?」
「あ、志貴さまと同じもので……」
「じゃぁ、コーヒー二つで。」
「かしこまりました。」

そう告げると、店員は去っていった。
やはり翡翠は落ち着かないのか、横目で周りを見ている。不釣合いのカップル
のせいか、興味深そうに周りが志貴たちを見ている。そんなことは気にもとめ
ず、

「翡翠は、こんなところは来た事ないよね。」
「あ、はい。私はお屋敷から出ることはありませんでしたから。」

暫くして店員がコーヒーを運んでくる。いれたてのコーヒーの香りが疲れを癒
す。志貴はそのまま、翡翠はミルクに砂糖を少々。さめないうちに口へと運ぶ。

「そうだ、翡翠、これ。」

思いついたように志貴はリュックの中からパンフレットを取り出した。

「志貴さま、これは?」
「これから行くところのパンフレットさ。行ってからあれこれ考えるよりは先
に渡しておこうと思って。」

志貴が翡翠に渡したのは、これから向かう観光地のパンフレットだった。
古風な街並みを売りにした長閑でいかにも年配の人が訪れそうな観光地である。
今回、旅行先を決めたのは有彦である。学校を休んで旅行に行くこともあるが、
それが年配の人と混じって行くためにこんな旅行に関しての知識は相当ある。

「静かだし、年配の人が多いから、丁度良いんじゃないかな。」

志貴は有彦にいくつかの注文をしていた。翡翠は人になれていないためにあま
り人のいないところを選んで欲しい、と有彦に言っておいた。注文どおり有彦
は、喧騒のない長閑な場所を選んでくれた。このことに関しては有彦に礼を言
わなければならないだろう。
それはともかく。

喫茶店で時間を潰し、発車時刻五分前に喫茶店を出た。そのまま、翡翠と一緒
にホームへあがり有彦と合流した。
そこへ新幹線がやってくる。停車してドアが開き、4人は新幹線車内へと入っ
た。志貴と翡翠、一子と有彦の組み合わせで座席に座った。
これから約1時間ほど行ったところが目的地だ。

「あたしは寝るから、着いたら起こしてくれ。」

一子はそうぶっきらぼうに言って目を閉じてしまった。

「んじゃ、おれはパンフでも見ているから、そっちはお好きに。」

いちいち有彦の言葉には刺がある。

「むぅ、やっぱり妬んでいるんだろうか………。」

志貴は有彦に聞こえないように呟く。横の翡翠を見た。
翡翠は何も言わず車外の景色を眺めている。

……………まただ。

時折見せる翡翠の淋しげな表情。志貴には痛い程に分かっていた。まだ、あの
ことを引
きずっているばっかりに、このままでは翡翠が壊れてしまうのではないのかと
志貴は感じていた。そのためにも、翡翠を立ち直らせなければならない。それ
は、同時に志貴自身の過去との決別の意味もある。
志貴は何も言わず、翡翠を見ていた。
視線に気づいたのか翡翠は振り返った。

「どうかなされましたか、志貴さま。」

振り向いた翡翠は志貴の顔を見つめている。志貴は慌てて、

「あ、いや。外ばかり見ていてたのしいのかなって。」
「はい、いままでこんな中から景色を見たことはありませんから。」

どことなく儚げな表情のまま翡翠は景色を眺めている。
志貴はそれ以上聞くことはせずに、両目を閉じた。
 耳に新幹線の走る音が聞こえる。聞こえていた音がだんだんと遠ざかってい
く。やがてまどろみのという泉の中へと意識を投げ込む。ゆっくりゆっくり、
意識が溶け消えていく。やがて何も聞こえなくなった時、志貴の意識は完全に
まどろみの中に飲まれ消滅した。

                                      《つづく》