何も無い。
 何にも縛られることの無い空の下で。

 わたしたちは風に揺られるように暮らしていました。

 何気ないことに笑って。
 何気ないことに悩んで。
 何気ないことに迷って。

 まるで、風に揺れる蒲公英の花のように。

 たわむれているだけ。


『Dandelion

−天と地の間のちいさなちいさな二人だけの世界−』

                            10=8 01


 ここに来るのは何度目だろうか。
 数え切れないほど何度も来たような気がするし、数えるとは言えないくらい
しか来たことがないような気もする。詳しく憶えていないし、憶えていたから
どうというわけでもないだろう。
 ただ、この場所に来ると感じる思いは一つ。
 見上げるまでもなく広がる悠久の空、見下ろせば果てしなく広がる弧を描く
大地。その二つに対する感銘や情感ではなく、もっと個人的なこと。
 それを思うたびにわたしは涙を堪える。

 流れる空の蒼に混じった白い雲。蒼穹の色合いの白い線を引いたように気持
ちよく伸びてゆく雲は、まるで風に流れる布を思い出させる。例えるなら、白
いリボン。
 この星の形に添って弧を描いた大地の果ては遥か遠く、手の届かないような
遠くの地を感じてしまう。まるで、大切な人が消えてしまうのではないかとい
う気持ち。
 そう。
 わたしがここで感じるものは、懐かしさという感情だった。


 ゆっくりと。
 怠惰とも呼べるほどのスピードでそれは回る。それは決まった場所、決まっ
た軌跡を辿り続けて、そして元に戻る。
 小さな、小さな世界に自らを内包させて外界を見せ付ける籠。外の世界は、
あまりにも広く巨大で、圧倒的だ。小さな世界に閉じこもる者をさらに打ちの
めす、大きな、大きな世界がそこにあった。
 まさにそれは人生や自分自身を思わせる。
 だが、そうだとしたら皮肉な話。あまりにもちっぽけで、怠慢に過ごしてゆ
く日々。廻り廻って元の場所に戻り、また繰り返す。ただそれだけ。

 そこまで思考をめぐらせて頭を振る。
 いけない。思いつめると感傷的になってしまう。
 もう、いないのに。
 小さい頃から一緒に遊んで、そしてわたしを大事にしてくれた秋葉様。
 わたしを演じ続けてくれた笑顔の似合う姉さん。
 誰もいないのに。

 窓の外に目をやる。
 果ての無い世界の果てはオレンジ色に輝いていて、藍色の空にゆっくりと侵
食されつつあった。一日の終わりを告げ、宵の時を迎える輝き。
 見下ろせば、楽しく過ごした刻を惜しむようにゆっくりと人々が散ってゆく。
元々、多くの人は来ていなかったため、その散り具合もまばらでどこか侘しさ
を感じてしまう。
 こうして人々は日常に戻ってゆく。
 そして自分も。

 観覧車で一人。
 ひどく遠くなった世界を見下ろして。

 瞼を落とした。





 一連の事件が終わって数ヶ月が過ぎた頃。
 世間では春休み期間となっており、卒業、入学、就職などの諸々のイベント
を迎え、そして追い抜こうと駆け足で時を刻んでいく。
 無論のこと遠野志貴も春休みを持て余すように過ごしていた。
 二人きりになった屋敷だと二週間ほどの休みも数ヶ月のように長く感じてし
まいこの上なく暇だ。かといって外で遊ぶにしても毎日をそれに費やすわけに
もいかない。アルバイトも特にしておらず、ただただ時間を食い潰して、後々
に後悔していくだけの日々。

 だが今日は違った。
 天を仰げば透き通っていて、心が飛んでいって突き抜けてしまうのではない
かと思ってしまうほどに心引かれるスカイブルー。雲は少なく、薄く細い筋状
のものが何本か空に道を作っている。例えるなら白いリボン。
 入り口を抜けると、横手にいた翡翠の緊張した様子が伝わってくる。

「大丈夫、翡翠?」
「は、はい……大丈夫です、志貴様。遊園地に来るのははじめてでして……」

 眼前に広がる建造物。鉄の骨で組まれた絶叫マシンや観覧車、横手を見れば
お化け屋敷という具合に王道を貫いた遊園地のアトラクションの数々。開けた
視界に映るその光景は翡翠にとってどのように映るのだろうか。彼女の言葉は
いつもよりも緊張しているように思えるから、視界が狭くなって遊園地の様子
を上手く把握できていないのかもしれない。

 安心させるように翡翠の手を握る。
 軽い戸惑いこそ最初にあったが、一度握ってしまえば後は簡単に受け入れて
くれた。彼女の手の平は軽く汗ばんでいる。
 やっぱり、緊張しているのだろうか。

「翡翠、落ち着いて」
「お、落ち着いています志貴様。初めてとはいえ、遊園地を知らないわけでは
ありません」

 返答は至極冷静なものだった、緊張しているというのは杞憂だったかもしれ
ない。
 彼女は一際目立つ建造物を指差し、

「では、アレから乗せられましょう」

 と言った………乗せられましょうって……本当に大丈夫だろうか。
 しかも、彼女の指定したのは長大なジェットコースター。数年前までは日本
一を誇っていた“ヘヴンズ・ロード”と呼ばれるもの。やたらとクネクネして
うねっていて捻れていて弧を描くその姿。何と言っていいのやら、とにかく物
凄そうだった。天にも昇るといった表現が適切そうなくらいに。
 本当にいいの? と視線で尋ねる。

「大丈夫です。アレで昇天しましょう」

 不安だ。
 本当に昇天してしまいそうで。



 春休みとはいえ、平日なので人の入りは思ってた以上に少なかった。この遊
園地自体、ここ数年の不況と都心付近にできた大型テーマパークに客の大半を
奪われてしまっているために寂れつつあるという現状。それも少ない人の入り
に拍車をかけているのだろう。
 だが、それはそれで逆にありがたくも思える。
 翡翠は人と触れ合うことを苦手としているために、少しでも人ごみの激しい
場所に来ると気分を害してしまう。この人の人数に彼女が負担を感じる様子は
今はない。
 そのはずだったのだが、どうも勝手が違うようだった。

 ぐったりとした、という表現がまさに似合うような格好でベンチにも垂れて
いる翡翠。この日のために何やら一生懸命に箪笥の中を探っていた様子だった
が、その努力を無に帰すかのように彼女の私服は風に煽られて乱れている。髪
の毛もどこか寝起きのようにはねている様な。

「おーい、翡翠。話せる?」
「………………」

 へんじがない、ただのしか―――

「大丈夫、です。少し、驚いただけですから。ジェットコースターに」

 ―――ばね、ではなかたようだ。

「そう? 一応、これ飲み物だけど中は紅茶だから。まあ、自販機のヤツだか
ら味は保障しないけど」

 カップを手渡すと、翡翠はすぐさま口をつける。二、三度ほど嚥下の上下。
 そして数分ほど乱れた呼吸と身だしなみを整えて、こちらへと向き直る。

「いきなり、ジェットコースターは辛かっただろ? あれでも数年前までは日
本一の怖さを誇ってたんだって」
「はい。それは身にしみました」
「そうだろ。まあ、次は軽いやつで……そうだな、何がいいか……」
「もう一度乗りましょう」
「あ、それもそうだね。もう一回チャレ……はい?」

 予想もしなかった言葉にめぐらしていた思考が停止。
 どこをどう見ても、ジェットコースターでグロッキー状態だった翡翠なのに、
また同じものに挑戦すると言い出している。

 軽く意識が遠のいた。

 ふと横手を見やれば、悲しいまでも千葉県にあるテーマパークのキャラクター
を模倣――悪く言えばパクッた、よく言えばトリビュート――したマスコット
キャラクターが数少ない子供に愛想を振りまいている。また、その子供も中身
を知っているのかやけに小生意気な態度。
 空を見上げれば果てしない青色。
 だが、空の果てとはどこだ? そもそも、空は廻り廻れば地球を一周して元
の場所に戻ってしまうではないか。果てなど無い、というのが正しい答えなの
だろうか。

 軽い現実逃避から、意識を戻してゆく。

 あ。
 そうか。
 聞き間違いしたのか。

「あー、ごめん。よく聞こえなかったんだけど」
「はい。もう一度、先程のジェットコースターに乗りましょう」
「……………」

 それって冗談?
 などとは聞けるはずも無かった。彼女の表情はあくまでも真剣そのもので、
何やら戦場に赴く戦士を思わせる決意を感じさせる。

「先程のアレは、聞くのと体感するのではまったく違いました。カーブを曲が
る際の振り落とされそうな感覚、三連続スピンの浮遊感。そして最初の落下が
今でも忘れられません。この感覚を無くす前にもっともっと体感してみたいの
です」
「………はぁ」

 生返事を返すことしかできない。
 正直に言えば、自分はもうさっきの一回でいっぱいいっぱいなのですけど。
二度目は、ちょっと、朝食が、危ない、ような。
 あぅ。
 想像しただけで少しぶり返して来やがった。

「えーっと、そうだねー、その」

 若干の逡巡がまずかったらしい、こちらが翡翠の意見に芳しくないと見て取
った彼女がハッと何かに気づいたような驚き。そして目を伏せる。

「も、申し訳ございません、志貴様……わたし、自分の都合ばかりで、志貴様
のことを何も考えていませんでした……すいません」

 俯き加減の表情で答える翡翠。本当に自分がとんでもないことをしてしまっ
た、というほどに発言の責任を感じているようだ。今の発言をしてしまった自
分を責めて、責めて、内にこもっていってしまうような雰囲気。それは罪を自
ら一身に受けるかのよう。

「せっかくの……その、志貴様とのデートを、こんな自分勝手に……」

 自らを責めるその姿は見ていて痛々しい。そして“デート”という言葉を言
うときの少し恥らうような仕草や頬の赤みがたまらなく可愛らしかった。
 そんな表情をされて「じゃあ、翡翠だけ行っておいで。フリーパスだし」な
どと言うようなヤツは男じゃない、それ以前に人間ではない。

「そんな顔するなよ、翡翠。俺なら大丈夫! ほら、二回目乗るんだろ、行こ
うよ」
「え……でも、志貴様」

 顔を上げ、虚を突かれたようなそれを見せる。手を握って、ひっぱると彼女
もややあって駆け出した。まだ逡巡の気配。

「翡翠……楽しもう! 今日はデートなんだから」

 デートという言葉は思いのほか翡翠には有効だった。普段は外に出ないため
に、こういった言葉に何らかの憧れがあるのかもしれない。俯き加減の翡翠だ
が、それは赤面した顔を隠すためであろう。彼女のステップが軽く、早く跳ね
る。

「……はいっ」

 戻ってきた返事は、どこか嬉しそうであった。
 それだけで、こちらも嬉しくなってさらに駆け出す。

 まさか、この時。
 午前中連続してジェットコースターに乗るとは思いもしなかった。
 よほど気に入ったのだろう。

 なんつーか、本当に昇天しそうな気分だった。



 傾いた体を翡翠に支えてもらいながら歩を進める。
 一歩一歩がこんなに重くなるなんて久方ぶりの感覚だ。確か、以前はシキに
命を削られていたときだったか。大地を踏みしめて、自らの体重を支える。だ
が、思ってた以上の重圧にふらりと足元がよろめく。

「志貴様? 大丈夫ですか」
「……あ、ああ。大丈夫だってば、はは」

 心配そうに覗き込む翡翠に笑顔を返す。渇いた笑みになってしまっただろう
が、それでも彼女を安心させたかった。
 覚束ない足取りながら、目的の場所にたどり着いた。あらかじめ持ってきて
おいたシートを広げて腰を下ろす。咲き誇る黄色い花が、それに煽られるよう
に互いの花弁を寄せ合って揺れる。
 敷地内に開放された小高い芝生の丘は、ピクニックなどに最適な場所であっ
た。遊園地内を軽く一望できる景色は広く、そして清々しい。元々、客が少な
いせいか人も他にはいなかったためにのんびりとこの場所を満喫できそうだ。

「志貴様。お食事のご用意ができました」

 見渡していた視線を翡翠の方に向ける。あらかじめ屋敷から持ってきたお弁
当がそこには広げられていた。二人分なのでそれほど嵩張るような荷物でもな
く、小さなバスケットがちょこんと鎮座。そこから、テキパキとした手際で翡
翠がお茶の用意を始める。

 心奪われるほどの透き通った青空。
 心奪われるほど、果てしない景色。
 心奪われるほど、可愛らしいメイドさん(私服だけど)。

 春休みの時期でありながら気温は暖かく、風に頬を撫でられながらもそれは
心地よい気分を与えてくれた。
 そんな中で翡翠の手作りお昼ご飯で昼食。
 いいね。非常にいい。

「紅茶を用意しましたが、よろしいでしょうか?」
「ん、いいよ。翡翠が淹れてくれたものだったら、何でもね」
「……あ、ありがとうございます」

 ジェットコースターの影響からか、まだ若干気分が悪いが倒れるほどの酷さ
ではない。それに、こうして昼食時をのんびりと過ごせば気分も良くなるに違
いないだろう。
 楽観的に考えて弁当箱を開ける。

 うわぁい、ウメサンドでいっぱいだぁ。

 そういえば、今朝はテレビを見ていなかった。元は琥珀さんの私物だったが、
彼女がいなくなってからはリビングに置いて朝は翡翠と二人で見ている。今朝
の日経平均株価の様子を確認するのを忘れていた。ああ、そういえば政治も何
やら汚職のオンパレードで凄いことになっていたような。他には……そうそう、
大物芸能人夫婦が破局したとか。

 などと現実逃避してみるが、やっぱり中身はウメサンドのままだった。
 血を吸ったように朱に染まったパン。その挟まった間からはやわらかそうな
梅がびっしりと隙間なく詰め込まれていて、むしろはみ出してしまいそう。
 はは、と渇いた笑いを翡翠に投げかける。翡翠は少し恥ずかしげに頬を赤ら
めてうつむいてしまった。くそう、可愛いじゃないか。

「い、いただきます」
「はい、志貴様。味わって食べてくださいね」

 そういって照れの混じった微笑み。
 その時には、もう決心はついていた。午前中のジェットコースター連続搭乗
で胃の中が反転しているとか、未だにバランスの取れない感覚とか、そういっ
たものを全て擲ってウメサンドを食べた。
 だってさ、翡翠の笑顔見たら食べないわけにはいかないでしょ。

 そんなこちらを笑うように黄色い花が揺れた。



                                      《つづく》