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彼も、彼女も。
みんな、みんな。
終わらせることができませんでした。
だから、終わってしまいました。
『終われないが故に終わってしまった者達への歌』
10=8 01
冬の足音はすぐそこまで近づいていた。
空気を震えさせるその音は、金属を打ったように響き、冷たく屋敷の中に反
響してゆく。
硝子窓が震え、広い廊下の空気はそれこそ凍ってしまったかのように静寂を
保っている。
軽い吐息が、白を纏った。
闇の中で“亡”と浮かぶそれは灯火のように揺れ、儚く消えてゆく。
その暗い静寂の中で、吐息の主が歩を進める。一歩。また一歩と歩みを刻ん
でいく度に、屋敷の壁に足音が反響してゆく。普段は絨毯のおかげで足音など
は聞こえないはず。
冬の寒さのせいだろう。
そう考えて、さらに歩を進める。
再び吐息。
意識したものではなくても自然と零れる白は、闇に飲まれ、霧散してゆく。
さほど強い吐息ではなかったが、カタカタという音を立てて硝子窓が揺れた。
その揺れは内からの吐息か、外からの風か。
そっと硝子越しに外を見る。
乾燥し、凍らされた空気は美しさを感じさせるほどに澄み渡っており、外を
流れている風が見えてしまうのではないかという錯覚すら感じてしまう。
その澄んだ世界を埋め尽くすのは、白。
白く凍りついた破片が、天より出でて降り注いでゆく。
触れれば溶けてしまう雪も、どこか凍結してしまったような印象。降り注ぐ
雪は、まるで硝子の欠片だ。
「――――はぁ」
軽く吐息を零す。今度は意識してのものだ。
それでも白い息は闇の中へと消えてゆく。
窓の向こうの世界。
今にも切り裂かれてしまいそうなほどに凍えきったそこに一つの影。どこか
足取りの覚束ないそれを確認した吐息の主は、身を翻して階下へと向かう。
彼があそこから帰ってくるときはいつもそうだ。文字通り命を賭して、彼は
あそこへと向かい帰って来る。
褒められた物ではないと、廊下を進みながら思う。彼の行っている行為は仕
方の無いことだろう、それは理解はできる。だが、それが「何かの解決へと向
かっているのか」と問われれば、言うまでもなく「向かっていない」と答えざ
るをえないのも事実。
そうこう思考している間に屋敷の玄関へと辿り着いた。
彼はまだ来ていないらしい。何をするでもなく沈黙を保ちつつ待っていると、
重い音を立てて扉が開いた。
「あ……ただいま、翡翠」
「お帰りなさいませ、志貴様」
互いに挨拶を交わし、翡翠は深々とお辞儀をする。
そんな彼女に志貴は笑顔で応えた。だが、それもどこか弱々しい。
「志貴様……お体の方は大丈夫でしょうか?」
「ん、ああ……今日はまだ少なかった方だし」
「そう……ですか」
「うん。琥珀さんは夕飯?」
「はい。姉さんは、先程買い物から帰ってきて夕食を作っています。今晩は、
シチューを作るそうです」
「シチューかぁ……いいなぁ、秋葉にも食べさせてあげたいね」
「……はい」
僅かな間を持って翡翠は答えた。
話をする志貴の顔は、どこか生気の抜けたような危うさを含んでおり、触れ
てしまえば今にも崩れ去ってしまいそう。まるで白い吐息。
彼は妹の話をするときはいつもそうだ。
「志貴さま……ご夕食までは、まだお時間がありますが、ご入浴になさっては
いかがでしょうか? すでにお湯の準備はできております」
「え? ああ……そうだね、なんか……悪いな」
志貴は相変わらずの笑顔で歩を進める。
その一歩が重く、引きずるように絨毯を引っ掻いてゆく。まるで、機械仕掛
けの人形が今にも事切れそうな様子を思い起こさせる歩き。
肩や頭にかぶさっていた雪が溶けて、雫を零す。志貴は掃おうともしなかっ
た。
それを咎める者は、ここにはいない。
「……あれ?」
志貴の一言。
翡翠の目の前で志貴の身体がゆっくりと傾いてゆく。彼の顔は驚くでもない
といった、力の無さ。おそらく躓いて転んでいるのだろう。翡翠が反射的に手
を出したが、その指が志貴の手の平と軽く擦れると―――。
「っ!」
そのまま志貴が床に倒れこむ。
彼の倒れた音はやけに静かで不気味さすら感じてしまう。
翡翠は。
翡翠は、その手を彼に伸ばせなかった。
自分の指を。擦れ合った指を翡翠は見つめる。
彼女の手は、尖った空気に曝されたかのように小刻みに震えていた。
瞳は、怯え。
映すは、悔恨。
彼女はその場に立ち竦む。
遠野秋葉が反転してから、志貴はずっとこの調子だった。
遠野四季によって死に至る深手を負わされた志貴は、妹の秋葉から命の半分
を受け取ることで今の生活を手にしている。だがその代償に、秋葉は反転の衝
動を抑えきることができず、また四季の起こした事件によって彼女は完全に反
転してしまった。
彼女を愛すると誓った志貴は、反転し、ただ血を吸うだけの存在になってし
まった秋葉に対し、彼女を殺すことも、自らの命を返すことも選ばずに、ただ
彼女と共に行き続けることを選択した。
翡翠にはそれが正しいのか、間違っているのか、どちらとも判断がつかない。
ただ、選んだ行動の結果が、未だ血を吸い続ける遠野秋葉であり、大量の血
を吸われ続けて疲弊していくだけの現状である。
終わらせることを選ばず、自ら終わることを選ばず。
ただ志貴は終わらないことを選んだ。
志貴にはこれ以上の無理をしてほしくない。
だが、それを言ったところで志貴が今更になって考えを改めるはずもないし、
翡翠に今の志貴が行っていること以上の解決方法があるというわけでもなかっ
た。
ただ、これ以上衰弱してゆく姿を見たくないだけ。
彼の見せる笑顔は、彼が女性として唯一愛する遠野秋葉にのみ与えられる。
だからといって、志貴が完全に翡翠たちに笑わなくなったわけではない。だ
が、普段の生活で自分たちに見せる志貴の笑顔はまるで、全てを削り取って笑
顔を構成しているような、そんな表情。
それが翡翠には、無理をして笑っているようで辛い。無理をして、自分たち
を気遣っているのではないかと思ってしまい、胸が軋む。
その遠野志貴。
今の彼にはその笑顔すらない。
酷く美しかった。
寝息すら立てていないのではないか、という風に思わせる彼の様子や、凍え
きってしまったように真っ白の肌、そしてそこだけ時間が止まったような周囲
の空気が、触れてはいけない禁忌を感じさせる程に綺麗に映る。
だが、それ故に危うい。
美しいがために触れてしまったら崩れてしまうのではないかという、硝子細
工のようなキメ細やかさ。融け去ってしまう雪のような儚さ。
それは白い吐息を思わせる。
それならば。
さしずめ遠野秋葉は、零れる吐息を飲み込む館の闇か。
「志貴さんは、もう起きないわ」
琥珀が一言だけ告げる。
こんな時でも彼女の言葉には深刻さという物を感じられない。いや、深刻さ
を含ませるだけの感情を彼女は持ち合わせていないようにすら思わせる淡白さ。
翡翠は彼女の言葉に目を見張るが、泣き崩れはしない。
無言で次の言葉を促す妹に、姉は一つ頷く。
「今までずっと一人で、志貴さんは秋葉様に血を与え続けていた……それが、
志貴さんの体力を……生命力をここまで奪う結果になってしまったの」
「姉さん……お薬か何かは……」
翡翠の提案に首を振る琥珀。
漏れる琥珀の吐息は、暖房の効いたこの部屋では白を纏わない。翡翠の零し
た吐息も同じだ。ただ、志貴だけが白く疲弊した肌を持つ。
「これはお薬でどうこうなるレベルの状態じゃないの、翡翠ちゃん。失血でこ
こまで酷くはならないわ……多分、秋葉様の血液の摂取が日に日に多くなって
いることに関係する」
「……そんな」
「多分……血液だけでなく、生命力も吸われているわ……今、志貴さんは死ぬ
寸前までに衰弱している……反転した秋葉様の力は翡翠ちゃんも解っているで
しょう?」
ただ無言で頷く翡翠。
秋葉の能力―――対象から全てを奪う略奪を司った力。乱れ狂う真紅の髪は、
遠野の血筋の闇の部分。紅き髪は忌まわしき遠野寄りの“血”そのものだろう
か。離れで暮らしている秋葉の髪は朱に染まり、もう黒を纏うことはない。
「そ、それじゃあ、志貴様……は」
「…………」
さすがに琥珀が言いよどむ。この先の言葉は彼女が言わなくても十分に理解
できる。
反転した妹を愛し。
自らの血液のみを彼女に与え。
生命力をも奪われた、彼。
終われなかった。終わらせられなかった。
その代償は―――遠野志貴の、死。
「――――ぁ」
「翡翠ちゃん……泣いて……」
気付けは翡翠の瞳からは雫が溢れ、零れている。彼女自身はそのことに気が
ついていなかったのか、自分の涙がつたう頬を撫で、その存在を見、不思議そ
うに眺める。その顔はどこか痛々しい。
「あ、の、姉さん……わたし……わたしっ」
「翡翠ちゃん……何も言わなくていいから」
止まらない、止められない涙を零しながら嗚咽する少女に、その姉はそっと
腕を広げ抱きとめてあげた。翡翠の震えは酷く、琥珀の身体にも伝わって来る。
「姉さん……わたしっ、わたし……もう、いやぁ……志貴様を失いたくないっ!」
「………翡翠ちゃん、あなた……」
「もう嫌なのっ! 大事な人がっ、大切な人が目の前で死んでいくのを見るの
は……そんな姿を二回も見たくないのっ!!」
暗い室内に叩きつけるように翡翠が叫ぶ。胸の内に潜めていた感情を吐露し
た翡翠の姿は、冷たい大気に切り裂かれた様。
ずっと、ずっと我慢していたのだろう。
琥珀は嗚咽を漏らす妹を抱きしめながら、吐息。溜息でもなく嘆息でもなく、
ただの吐息。それが翡翠の濡れた頬を撫でる。
「翡翠ちゃん……」
「……ねえ、さん?」
琥珀の瞳が、す、と細くなる。
それは笑顔の細さではなく、見据える細さ。
彼女はできるだけ静かに、そっと諭すように語りかけてきた。
「いい、翡翠ちゃん……今晩は、私が秋葉様のところに行きます。志貴さんが
こんな調子では無理でしょうから……」
「姉さん……でも」
それは志貴の誓い――秋葉には志貴の血しか吸わせないということを破って
しまうことになるのではないか。翡翠はそう言おうとして逡巡。言葉を飲み込
み、琥珀の次の言葉を待った。
「わたしが、秋葉様のお食事にいくから……翡翠ちゃんは、志貴さんの看病を
お願いするわね……いい?」
「………はい」
先程まで感情のままに泣いていた少女とは思えないほど、静かな声の翡翠。
しばらく、琥珀はそんな翡翠を見つめていたが、それ以上は何も言うことは
なかった。
何も言わず。
何も語らず。
ただ、瞳で迫る。
「……………ごめんなさい」
決意を。
琥珀の退出した後に、翡翠は深々と謝罪する。
誰がために謝るのか。志貴か、秋葉か、琥珀か、それとも自分自身なのだろ
うか。
それを知る者は彼女以外にはいない。
闇を含む室内に、ただ一つだけ燈る灯り。
ぼんやりと陽炎の如く揺れる白い灯火は、今にも消えそうなほどに拙い。
闇に飲み込まれてしまいそうなほどに。
《つづく》
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