いつか――




 目を覚ました時、近くに誰かの温もりがあるのは、とても嬉しかった。
 薄らぼんやりとした曖昧な闇の中で感じられるのは、その温もりだけ。その
温もりだけを感じたいから、また眼を閉じた。
 目を開けてしまうと世界をはしるヒビを、なにもかも失ってしまうことを突
きつけるかのように巡らされている黒い線と点を見てしまうから。

 世界はこんなにも壊れやすい。

 黒い、くろい、クロい線。
 縦横無尽にうねうねと悶え、世界に休まるところがないことを告げる線。
 こんなにも脆くて、こんなにも柔らかくて、こんなにも無情だと示す線。
 線。
 線。
 線。

 ああ――――沈んでいくようだ。

 ぶくぶくと――――生きるために必要な酸素を唇から漏らしながら、ゆっく
りと遠くなっていく水面を眺めている感覚。

 ゆらりゆらりと揺れ、
 ゆらゆらと光は戯れ、
 ぶくぶくと泡がたなびき、
 ぶくぶくと――――。

 手を伸ばせばこの絡みつく、あまりにも冷たく、こんなにも酷い水から逃れ
て水面から出られるような気さえする。

 そんなことありえないのに。
 そんな都合のよいことなんてないのに――。

 それでも、ほんのいくばくかの期待をこめて、伸ばしてしまう。求めてしま
う。もがいてしまう。あがいてしまう。そうすれば手にはいるかのように。そ
んなことないってわかっているのに。そうしてしまう自分がいた。

 キラキラと煌めく水面。水面を撫でるそよ風にざわめき、そのざわめきは眩
いばかりの陽光を反射して煌めく。

 深い、深い、こんなにも深い紺碧。人の心をとらえて離さない色合い。心に
住み着いて一生忘れることが出来ないだろうと確信してしまうような、あの翠。
 それはこんなに綺麗で、こんなにも切なくて、あんなに澄み切っていて、魅
了する。こんなにも魅了してやまない。

 ああ――――それは――――。



いつか

                  大崎 瑞香




「――志貴さま」

 その言葉にはっとした。
 暗闇。なにもかも曖昧な薄暗い世界。眼鏡をかけて、世界の綻びから目をそ
らした。

「……おはよう、翡翠」

 体中が苦しい。ギシギシと節々が唸り、キチキチと心が軋んでいたが、それ
を押さえ込んで、挨拶した。笑みは浮かべている。はずだ。翡翠に心配をかけ
たくないから、つとめて笑うようにしていた。

 月明かりが射し込み、ほのかに輝く暗い部屋で、翡翠は心配そうに覗き込ん
でいた。逆光なのに、見えるのはその美しい翠。名前と同じ翡翠色のきらめき
が2つ、俺を見つめていた。

 翡翠に向かって笑いかける。笑いかけることしかできない。ああ――――俺
はようやく得心した。なぜ琥珀さんが笑い続けていたのか。どうしようもなく
なると、笑うことしかできなくなるのだ。
 泣いていたってどうしようもない。怒っていても仕方がない。だからといっ
て無表情で生きることなんてできない。だから、こんな曖昧な笑みを浮かべる
しかない。そのくらいしか、俺にはできない。翡翠にしてあげることなんて、
こんなことぐらいしかないのだ。

 翡翠はその綺麗で雪のように白い胸元をまた同じく白いシーツで隠しながら、
まだ心配そうに覗き込んでいた。

 だから微笑む。いくらでも微笑んであげる。翡翠がそれで微笑むのなら、そ
れで安心してくれるのなら、このくらい安いものだ。
 なのに――――翡翠はとても哀しそうにしていた。その眉間に眉を寄せて、
何か言い足そうに唇がかすかに動いていた。
 おずおずと壊れやすい細工物に手を伸ばすかのようにそっと手をさし伸ばす
と、彼女を引き寄せた。

 温かかった。心臓のトクンという鼓動が伝わってくる。たぶん俺の鼓動も彼
女に伝わっているだろう。こんなにも安らかなんだと伝えたくて、俺は引き寄
せるだけでなく、胸に抱き寄せた。翡翠の頭を大きな疵痕がある胸に抱え込ん
だ。心音を聞いて欲しくて、こんなにも安心しているのだよって知らせたくて。
 翡翠の心音が少し跳ねる。トクントクンといっていたものがドクンドクンに
なっていく。胸にかかる息が甘い。擽るかのようにそろりとなであげていくの
が気持ちよかった。

 そっとその赤い髪を撫でる。サラサラな、クセのない髪は指先からしなやか
にこぼれ落ちた。そのさらりとした冷たい感触が心地よくて、何度も掻き上げ
て弄ってしまう。

「……志貴さま」

 胸にかかる吐息。翡翠の恥ずかしそうに震える声は、その吐息とともに擽る。
でも俺は翡翠に答えることなく、その髪を撫で、その背中を指先でいじる。

 腕の中で彼女は身じろぎする。動いて、逃れようとする。どこかに行ってし
まおうとする。彼女たちのように、俺をおいてどこかに行ってしまおうとする。
それがいやで腕に力を込めた。

 体が密着した。その柔らかい胸が、その細い腰が、そのきめの細かい肌が、
その温もりがぴったりとくっつく。

「……志貴さま」

 泣いているかのような掠れた声。それとも泣いてるのは俺なのだろうか?
 わからない。わからなくていい。わかりたくなんて――ない。

 このうすらぼんやりとした灰色の世界で、感じられるのは温もりだけ。
 この曖昧ではっきりとしない暗い世界で、見えるのはその翠の瞳だけ。
 それだけで――――いい。
 それだけしか―――ない。

「……志貴さま」
「……なんだい、翡翠」

 翡翠の心音はまだドクンドクンと激しく高鳴っていた。俺も高鳴っているの
かも知れないな、と思いながらようやく答えた。

「…………おつらいのですか?」
「……いいや。翡翠がいるから、大丈夫だよ」

 いけない。翡翠に心配かけるなんて。笑うんだ。早く、笑って。なんでもな
いんだって言わないと。俺は笑うように、やや冗談めかして返答した。

「翡翠がいれば、それだけでいいんだ」

 今度は翡翠が黙ってしまった。
 聞こえるのは心音と息づかい。風でも吹いたのか木々のざわめきが遠くに聞
こえた。
 静謐な世界が責め立ててくるようで、それが酷くつらくて、また話しかける。
つい話しかけてしまう。

「翡翠は俺とじゃつらい?」
「いいえ。そんなことありません」

 畜生。オオバカ者。このバカ。こんな言い方をしたら、翡翠はこうしか答え
ないことは分かり切っていたのに――なのに俺は自分が安心したくて聞いたん
だ。
 なんて脆弱。
 なんて臆病。
 なんて愚鈍。

 まるでこの世界のよう。壊れるのがわかっているのに、そんな壊れやすくて
脆いものにしがみついてないと自分の立つ位置さえわからなくなってしまう。
縋りつくしかないなんて――――なんて弱いんだ。

 翡翠が好きだというのに、こんなにも好きだというのに、なのに傷つけてし
まう。まるで今の俺達は互いの疵と血を舐め合い、慰めあっているだけじゃな
いか。

 哀しい痛みが胸をつく。まるでキリで刺したかのように、その一点だけが痛
む。痛くて苦しくて、仕方がない。
 でも俺はまた笑った。今度こそ翡翠をだませるようにと願いながら、自分で
も騙せない愚かなウソを吐く。

「翡翠がいるだけでいいよ」

 同じウソをつき続ける。それが正しいのかどうかわからなくなる。最初はた
ぶん正しいのだと信じていたはずだ。今ではどうしてそうしたのか思い出すこ
ともない。思い出せない。
 ただ翡翠が笑って欲しいから。
 ただ俺もそれを見ていたいから。
 それは確認。
 翡翠が笑い、そして俺も笑えているのだという確認。

 心が少し痛む。でもそれは気のせい。キのせい。キノ――――――セイ。


 アア、


 窓の外では月が輝いている。あんなにも輝いていて世界をやさしく包み込ん
でいる。なのに、ここまでその光は届かない。

 届きっこない。

 外は明るく、ここは昏い。あまりにも暗くて、泣いても気づかれないかも知
れないと思ってしまうほど。
 そんなわけないのに。

 だから笑う。口だけでもいいから笑う。そのくらいしかできないから。


 ――アア、オレハ ナンテ ウソツキ ナンダ――。





 朝が来るとふたりきりの陰鬱な世界は終焉を、あっさりと告げる。こんなに
もあっさりでいいのかと思うぐらい、拍子抜けするぐらい簡単に終わってしま
う。
 暗い考えを眩い朝日が取り払ってくれる。暗い世界では鎌首をもちあげてく
る痛みや辛さが、陽光は隠し、癒してくれる。

 なんの解決にもなっていないことはわかっているが、それだけでも心が少し
だけ軽くなる。そのほんの少し、まるで羽毛のような軽さだけだとしても、そ
れのおかげて俺たちは今日も生きていけるのだ。

 たとえ屋敷にふたりだけだというのに、世界は否応なく俺たちふたりに絡み
つき、関わろうとちょっかいをかけてくる。

 翡翠を置いて学校へ行く。それは学生として、社会的規範からすればまっと
うなのだろう。でもこうやって世界とかかわって心を軽くしている俺はまだし
も、この屋敷にひとりっきりで残る翡翠は?

 ただ黙々と掃除をして、洗濯して、俺の帰りを待つだけ。娯楽という娯楽が
ないこの屋敷の中でたったひとり待つことを考えると、学校をいくのをやめよ
うかと思う。学校なんていかなくて翡翠の話相手を1日中してやりたいと思う。
 しかし前に一度そういったら、翡翠は怒った。

「学生の本分は勉学にあります。どうぞわたしのことは忘れて本分を全うしく
ださい」

 無表情で慇懃に答える翡翠は前と変わらないように見える。でも変わらない
ということはないだろう。翡翠は琥珀を、俺は秋葉を、互いの肉親を失ったの
だから。

 天涯孤独なものどおしの、ふたりぼっち。

 ――――いや、違う。
 俺には学校があるし、有間の家も、有彦も一子さんもいる。俺は恵まれてい
る。
 それに対して翡翠は何もない。俺しかいないというのは、思いこみや願望の
せいなのかもしれない。けれど翡翠には何もない。あるのは仕事だけ。メイド
という仕事だけ。

 むろん、愚かで身勝手な考えだと思う。
 でも世界はこんなにも広くて、こんなにもいろんなものがあるというのに、
翡翠はそれを知らない。まるで篭の中で生きる小鳥のようだった。しっかりと
空を自由気ままに飛ぶことができる翼があるというのに、篭の外を飛ぶことが
できない。篭の外に世界が広がっていることでさえ考えつかない小鳥のように
さえ思えてしまう。

 空は青く高く、雲はこんなに自由に浮かび、風はこんなにも軽やかに吹いて
いるというのに。

 篭の中の自由。でもそれは誰でも同じなのだと思う。こうして翡翠のことを
篭の中だと思っている俺はやっぱり社会という篭の中にいる。誰しもが篭の中
にいるのだ。みんなみんな篭の中。できるのはどの篭を選ぶかということ。―
―――そう考えてみれば翡翠は自分でこの篭を選んだのだから自由なのかもれ
ないな、とも思った。

 それにこう考えているのは翡翠を哀れんでいることになる。翡翠を一段低く
見て、上から可哀想に哀れんでいるんだ。

 なんて愚かしい。
 翡翠はこんなに一生懸命なのに。
 こんなにも頑張っているのに。
 翡翠に甘えてばっかりだな、と思って、俺は目の前に微笑んでいる翡翠に微
笑み返す。

「――――ゴメンな」

 つい口にしてしまう。翡翠は訳が分からず怪訝そうな顔をするが、気にせず
に謝った。

「…………いいえ、わたしは志貴さまのメイドですから」

 優しい、柔らかい笑み。頬を染めながら、やや下向き加減ではにかむ。無表
情な仮面の下から現れる瑞々しい翡翠の可愛らしい笑みが眩しくて、眼を細め
てしまう。

 そんな翡翠と一緒に思い出を積み上げたかった
 外を知らない翡翠に外を見せてあげる冒険に出かけるのが、休日の過ごし方
だった。

「明後日はどこに行こうか?」
「志貴さまが連れて行ってくれるところなら、どこでも」
「翡翠はどうなの?」

 いつものやりとり。それがこんなにも心を軽くする。
 暗い夜ではありえない陽光下での明るい会話。
 休日をどう過ごそうかと、お出かけの約束。デートというにしては可愛らし
く、遠出というのにはあまりにも近場すぎる、ふたりっきりのお出かけ。

 他愛もないことなのに、それが今は愛おしい。愛おしすぎて、こんなにも切
ない。こんなにも切ないから、涙がでそうだった。
 あたりまえの生活。あたりまえの日々。あたりまえの――――。

 それだけが、ふたりの望みなのだから。
 でも心はそのウソを暴く。
 翡翠だけいればいい。
 それはウソじゃない。
 でも本心でもない。
 なんて胡乱な心。
 こんなにも曖昧。
 それを誤魔化すかのように、笑いながらいつものやりとりをする。

「――――志貴さまがそこまでおっしゃられるのでしたら……」

 翡翠は顔をさらに赤らめて、恥ずかしそうにリクエストする。それでも翡翠
はリクウストを絞るような真似はしない。ショッピングだとか映画だとか、公
園だとかいうだけで、ここに行きたいと目的地をはっきりとさせない。そのな
かから俺が好きな所へ出かけられるようにという配慮だろうし、何より曖昧だ
から、いかにして翡翠のリクエストどおり、かつびっくりさせるところへつれ
ていけるのかがオレの楽しみでもあり悩みでもあった。
 そんな翡翠だから、つい意地悪したくなる。

「ここが行きたいっていうところはないの?」
「――――いいえ」

 もしかしたら外を知らないから、そういう曖昧な言い方しかできないのかも
しれないし、もしついヘンな場所をリクエストして旅費がかかるほどの遠出に
なってしまうのを怖がっているのかもしれないけど、一度ぐらい我が儘をいっ
てほしいような気がした。

 翡翠に甘えて欲しかった。翡翠に笑って欲しかった。ずっとずっと笑ってい
てほしかった。ほんの少しだけ寂しい。
 でも寂しいのは俺かもしれない。もしかしたら俺の方が甘えているのかも知
れない。
 ――――わからなかった。

 ただ目の前で翡翠は恥ずかしそうにさらに縮こまってコクンと頷き、そっと
微笑を浮かべた。それに答えて俺は微笑む。たがいに笑い合う――――心の奥
を悟られないように隠しながら。

 そして鞄を受け取る。すると翡翠は頭を深々と垂らす。赤いサラサラの髪が
ながれ、頭の上にのせたカチーシャがひらひらと揺れる。それがなんだかいつ
もの風景を思わせて、なぜか笑いがこみ上げてくる。

「いってらっしゃいませ」

 いつもと同じ声。いつもと同じ挨拶。いつもと同じ。なにもかも同じ。
 同じというものになってしまう。『変わらない』という言葉に埋没して沈ん
でいってしまう。見えなくなるように、うずめて隠してしまう。
 それと一緒に自分の心の奥も沈めてしまおう。そうすれば気づかれない。悟
られない。知られることはない。綺麗に跡形もなく、最初からなにもないよう
にしてしまおう。

 俺はその言葉に「いつもと」同じように頷いて、俺は今日もまた「いつもと」
同じように登校した。



                                      《つづく》