|
/
教室の席に座ると、息を大きく吐き出した。
吐き出したところでこの胸の中にあるものが出ていくわけではないのに、そ
れでも吐いてしまう。そうすればもっと軽くなれると信じて。
そんな他愛も考えにでも縋らないと、見えない何かに押しつぶされてしまい
そうだった。
ほんの少しだけ軽くなり、その分ほんの少しだけ世界の空気は重くなる。な
にも変わらない。何もないことが日常というなら、今この瞬間こそが日常だな
と思った。苦みにも似たものを味わいながら生きている感覚。ざらついたもの
で擦られて神経が摩耗し何も感じなくなる感覚。
そんな気怠げな日常というものの中で、俺は生活していた。
有彦も、高田も、吉良も、常盤もいた。遠くで舞士間が叫んでいる。みんな
いる。騒いだり、じゃれあったり、少し怒って見せたり。
そんな中、教師から1枚のプリントが配られる。
進路指導。そう記されていた。
その言葉を聞いたとき、ああもうそんな時期か、としか捉えられなかった。
本来ならこのことは未来の自分を思い浮かべて、どんなことをしていきたいの
かどんな風に生きていきたいのか、それを思い悩むきっかけとなるべきもの。
たいていは進学か就職かの二択しかなく、またうちの学校では進学率が高い
こともあっどちらかというと進みたい方向の確認と学歴と進学できるか否かに
ついて話し合うことになる。
仲の良い級友たちとの会話にもその漠然とした未来について語られることも
多くなった。また寡黙に勉強する者もいた。それはそうだろう、自分の将来が
かかっているのだから。
有彦はどうするのだろうと、ふと思って聞いてみたら、姉貴のスネを囓るの
もなんだしなぁ、といった。まぁ一子さんが学費や生活費をだしてもらってい
る以上、引け目というものがあるのだろう。有彦でさえこの態度をするぐらい
だ。
それに比べて俺はどうなんだろうか?
わからない。わからない。ワカラナイ。
俺の目は未来を見ていない気がする。もしかしたら漠然としずきているため
に視界に入っているのに認識できないのかもしれない。網膜に光が焼きついて
いるのに脳が知覚してくれないよう。
未来を見ているはずなのに、なぜか後ろにも眼があって過去をじっと凝視し
ているような、そんな不思議な感覚。前を向いているのか後ろを見ているのか、
それさえも曖昧で、わからない。何がわからないのかさえわからなくなってし
まうような感覚に、途方にくれてしまいそうになる。
これからどうすればいいのか。何をしたいのか。何をしていきたいのか。
この配られた紙に何を書き込めばいいのか、それがたった一言も思いつきも
しない。目の前の綺麗な白い紙の空欄を埋める言葉を見つけだすことが出来な
かった。
しかもおかしいのは、そのことに対して不安を覚えないことだ。
空っぽなのかもしれない。
空っぽすぎて、何も書けない。
今あるのは翡翠との休日だけ。
翡翠と積み重ねていく、楽しくて嬉しい思い出づくりのことばかり。
前だったらどうだったろうか?
有間の家にいたころならば会社員とかいておいて、もしかしたら第三希望に
家のことも考えてお茶の先生なんて書いたかもしれない。遠野の家に戻ったと
きだったら、やはり会社員だろう。ただ秋葉が色々文句を言いそうだけど。
でも今は――――。
何も書き込むことは出来なかった。
でもそのことを不安にも不満にも思わない。何をしていいのか、まだわから
ないだけだけだから。長い人生を今から決めても、どう転ぶかわからないのだ
から、先のことなんてこれっぽっちも思いつきもしなかった。それよりも、今
現在、そんな漠然とした未来よりも大切なものがあった。
翡翠。
ただわかっているのは、今は翡翠しかないこと。
翡翠さえいればいい
自分でも騙せないウソを繰り返す。何度も、幾度も。口癖になるまで。この
愚かしい俺の魂に刻み込まれるまでる
いつか自分も騙せるようにと祈って――。
/
先生は俺に“まっすぐに生きなさい”と云ってくれた。
君が正しいと思う大人になりなさい、とも云ってくれた。
俺はそうなれただろうか?
黄昏は優しく世界を包む。すべてを燃えさかる茜色に包み込んでしまう。な
にもかも隠してしまう夜でもなく、何もかも白日の下に晒してしまう呵責ない
陽光の下でもない、幻のような時刻だった。
進路指導を白紙で出したことを叱られ、帰るのが遅くなってしまった。
太陽が建物の間で大きくうつった。あんまりにも大きくて、目の前の建物が
燃えているかのよう。壁も、ビル、も、家も、木も、そして空気さえも何もか
も燃えているかのよう。
長い影をずるずるとまるでファッションのようにひきずって歩く。みんな同
じようなのに、みんな違う。同じなのは黄昏色に燃えているのと長い影をずる
ずると引きずっていることだけ。
長い長い坂をだらだらとのぼっていく。
先には遠野の屋敷があり、翡翠がいつものように門で待っているに違いない。
またなくてもいいといったのに、『これがわたしの仕事ですから』ときっぱり
と言われた。
俺は翡翠を待たせるような男なんだろうか?
翡翠につけ込んでいるのではないか? という不安が胸を締め付けてくる。
あまりにも冷たい思いのため、足がとまってしまった。
真っ黒に塗り潰された感情。
その黒くて、暗くて、昏くて、冥い思い。
世界は赤く、紅く、朱く、なにもかもアカい。
なんともいえない境界線の上にたっている気分だった。
黒と赤の境界線に立ち、ただそこを見ているだけ。何をしていいのかわかっ
ているのに、それをすることを躊躇っている。
「――先生」
俺はつぶやいていた。あの草原で別れた先生を瞼の裏に思い描いて。
「――俺はまっすぐに生きていますか?」
でも瞼の裏の先生はただ笑っているだけ。答えなんかくれないし、答えを貰
いたいとも思わない。たとえ先生からだとしても、もらった答えなんかにこれ
っぽっちも価値がないことを知っているからだ。
白紙で出したことに対して国藤教諭からは簡単な注意で終わった。実際に身
内に不幸があったばかりなので遠慮したに違いない。
みんな燃えているよう。
赤と橙と黄と黒。
水彩の紅い絵の具でめちゃくちゃに塗りたくられたかのよう。濡れたような
朱色と茜色とほんの少し陰鬱な黒色が混じり合った色で世界が塗りつぶされて
いた。
眼にいたいほど強い濃淡ですべてのものははっきりしているくせに、ふと眼
鏡の端から覗くとすべてのものがとけ込み混然となって、何一つ見分けがつか
ない。何もかも同じものになってしまったかのよう。
俺もこうして同化しているのだろうか?
みんなと一緒にこの何とも言えない色に溶け込んでいるのだろうか?
それとも――――。
かぶりをふって、ヘンな考えを追い払う。
儚い脆い世界が目の前に広がっているのがわかる。
うねうねと渦巻く黒い線。凶々しくも、静謐な線が世界をすべて切り刻んで
いる。刻一刻と終わりにむけて、誰にも気づかれないように、秘やかに崩れて
いく。
黒いおぞましい線。
物事の終わりである点から流れ出す“崩壊”の線。“死”の線。“終わり”
の線。それが世界に縦横無尽に、なんの聖域もなく、ただ犯している。侵して
いる。冒している。
世界はこんなにも死に冒され、崩壊に犯され、終末に侵されている。
もう――――いないのだという事実が心にのしかかってくる。存在しないの
だというのに、その存在はさらに大きくなっていく。重くて、大きくて、沈ん
でいくようだった。
沈み、溺れていくというのに、それが心地よい。タナトス(自己への破壊衝
動)に包まれていく。世界はこんなにもタナトスに蝕まれている。
もう――――弓塚も、四季も、秋葉も、琥珀さんもいない。みんないなくな
ってしまった。
残ったのは俺と翡翠だけ。ただその事実が砂を噛んだかのように口の中でざ
らつく。吐き出してしまうことができない、砂の味。ざらついて、空虚で、た
だただイヤな苦みだけが口の中に広がっていく。
“ばいばい”と弓塚と別れて、“――――ほんと、わたし、ばかみたい”と
唇だけ動かす秋葉と死別して、“――――――お前、だれだ?”と不思議そう
な顔をした四季を殺して、“そう――やっぱりただの思いこみだったんですね。
痛い。だから人形だったらよかったのに”と言って琥珀さんはいなくなってし
まった。
みんないなくなった。何処かにいってしまった。
――――考えないようにした。
そして考えてもどうしようもない。考えたからって、弓塚さんが、秋葉が、
四季が、琥珀さんがかえってくるワケではない。
ただ無くなったモノを数えて嘆いているだけ。
それは白紙で提出したのと同じ。前も、後ろも、右も、左も、上も、下も―
―――なんにもない。それではいけない。そんなんじゃダメなんだ。
だから、翡翠とともに俺は出かけるようにしていた。
何も知らない翡翠に、少しだけでも世界を見せてやりたかった。悲しみに負
けないように楽しいことを、嬉しいことを増やしてやろうと思って、俺は翡翠
を休みごとに、ことある事に引きずり回した。
はじめては有彦と一子さんとともに一泊二日の小旅行。人気がなく風光明媚
なところをきちんとつれていってくれた有彦と、男ではわからないことまで気
を回してくれて、翡翠のことをあれこれ手を焼いてくれた一子さんに感謝して
いる。だって翡翠が笑うようになれたのだから。
そして、それから2人のお出かけは始まったのだから。
自分の住んでいる町並みさえ知らない翡翠に案内してやる、うららかな午後。
入り組んだ路地の奥で鳴いている猫に手を伸ばそうとして逃げられてしまっ
て、しょんぼりしたり。
ふたりっきりだから犬や猫でも飼おうか? と提案したら、生き物を飼うと
いうのはとても大変ですから、とたしなめられたり。
同じ町の反対側にある有間家に遊びに行って啓子母さんと都古ちゃんと翡翠
とで西瓜を食べたり。
したことがないというショッピング。買わなくて本当によいのですか? と
何度も小声で尋ねてくる翡翠に笑ったり。
喫茶店で名物のバケツパフェを見てびっくりして目をいつもより多く回して
いる翡翠。
水族館で色とりどりの華やかな魚をずっと見入ってしまう翡翠。
動物園にいる様々な動物を見ては質問を繰り返す翡翠。
翡翠。翡翠。翡翠。
そこにはいろんな翡翠がいた。いつもはメイドとして感情を表に出さない翡
翠が少しずつ見せてくれるようになった顔。知っている翡翠もいれば、知らな
い翡翠もいた。
可愛らしく微笑み、何気ない些細なことで驚き、そして感嘆の声をあげる。
それはお出かけというものではなく、もしかしたら探検というのが正しいの
かも知れない。
子供のころ遠野の森で色々遊んでいた時と同じ、いろんなところを調べて歩
き回り、笑いあい、びっくりしあう、探検なのかもしれない。
そしてその探検で、少しずつ笑っていけば、少しずつ笑い合っていければ、
いつかセピア色の思い出になるのだから――。
哀しいことに負けないように楽しいことを積み重ねていこう。
明後日の休日には翡翠をどこに連れ出そうか、そのことだけ考えて、この燃
えさかるような黄昏色に染まった坂をのぼった。
/
翡翠はいつものとおり門の前で待っていた。
その姿を見た時、目の奥が痛くなった。
真っ赤な、赤い、紅い、朱い世界の中に立ちすくむ翡翠。まるで鮮やかな血
の中にたっているかのよう。この遠野家も濡れた赤に染まっていた。
血の中に荘厳に佇む屋敷。
それが遠野という家を、血筋を示しているようで、気持ちよいものではなか
った。ただの思いこみなのに、それが赤く染まるこの黄昏のひとときにおいて
は、偽りを暴かれ、真実の姿をさらしてしまうかのよう。
黄昏時は逢魔ヶ刻。誰彼? とそこにいるものがわからなくなり、闇と光の
狭間、横にいるのは誰だかわからなくなる時。
すべてが燃え尽き溶け込んでいたはずなのに、今では何もかも朧で、曖昧で、
ぐらぐらと地面が揺れているかのようだった。それとも揺れているのは俺なの
だろうか?
ぐらり、ぐらり、と。
血の中で待ち続ける翡翠を見続ける俺。
赤い。
アカい。
アカ――――い。
あまりにも赤くて、こんなにも切なくて、見ることに耐えきれず、思わず目
を閉じてしまった。とたん世界は昏い闇に包まれる。
遠くから虫の声。
冷たい風が頬を撫でていく。
そして――――
「……志貴……さま……?」
――そして翡翠の声。涼やかな風とともに耳に届いた。
自分でもばからしいと思ったけれども、翡翠の言葉を聞いただけで、心が躍
った。こんなに崩れ、崩壊し、終末に向かっている、血まみれの真っ赤な世界
の中、翡翠のやや固いけどやさしさを含んだ声だけがはっきりと聞こえただけ
で、俺はなんとなく嬉しくなってしまったのだ。
「…………ただいま」
目をあけた。
茜色、蘇芳色、鮮血のような濡れた赤にそまった中、翡翠が目の前にいた。
いつもと変わらない小豆色のエプロンドレスに白いカチューチャ。そして切
りそろえられた翡翠らしいサラサラの髪は少し風になびいていた。そしてその
翠の瞳。それだけが違った。この何もかも赤くて、紅くて、朱い世界の中で別
の色に煌めく美しい2つの宝石。それがじっと俺を見つめていた。
いぶかしげな視線はじっと俺を見つめた。何か言いたげな視線のまま、すっ
と世界から消える。深々と頭を下げたのだ。
「おかえりなさいませ」
いつもの会話。いつものように翡翠に鞄を渡す。翡翠をそれを大切なものの
ようにしっかりと掴むと、門を開けた。
重く錆びた音が響き、それに合わせるかのように、どこかで鳥が鳴いた。け
たたましく、でも物悲しく。
前を歩く翡翠の背中を見つめる。ピンと背筋を伸ばして、まっすく歩を進め
ている。
翡翠は何も言わない。何も言ってこない。
視線の意味がたったひとことですべて失うかも知れない。
だから、俺も何も言わない。何も言いかけない。
「どうかなされたのですか?」
気配を感じたのか、こちらを振り向く。綺麗な顔が蘇芳色に染まって、まる
で血のようで――――。
“痛い”
声が甦る。また目を閉じた。目の奥がズキリと痛む。胸の奥も痛い。
痛い。いたい。イタい。イタくて、たまら――ない。
「――――いいや」
痛みを堪えて、気づかれないように少しおどけた風にいう。びっくりしたよ
うな顔を作ってみる。気づかれたかも知れないけど問いつめてはこないだろう。
翡翠はまたお辞儀をして歩き出した。
そして俺達は屋敷の中に入った。
/
翡翠と同じ部屋で寝ることにしていた。同じ部屋だからといって何かするわ
けではない。ただ同じ部屋にいて欲しいだけだった。こんなに広い屋敷に少し
でも温かさを感じたくて、人肌が恋しくて、俺が無理を言っていてもらうよう
にした。
提案した最初は、翡翠は嫌がった。顔を真っ赤にしてそんな床を一緒にして
寝るようなふしだらなことなんていけません、と嫌がっていた。それでも、椅
子に座っているだけでいいからとにかく部屋に、側にいて欲しいと頼みこみ、
それならばとようやく了承してくれた。
暗闇の中、しんと静まりかえった部屋の中に翡翠がいるだけで、俺は安心で
きた。
翡翠は俺のことをただ見守ってくれた。翡翠の心音。寝息。体温。それが感
じられるだけで、楽になれるのだから。
俺は翡翠に甘えていた。まるで子供のようだとも思う。暗闇に潜むいもしな
いお化けを怖がって母親を求めて泣いている子供。
それでも、側にいて欲しかった。いるだけで幸せだった。安心して微睡みを
貪ることが出来た。
いつしか翡翠は俺のベットでともに眠るようになった。緊張していたためか
部屋で眠れない翡翠がベットに寝てしまったことから時からかもしれない。
だからといって手を触れるわけでもない。抱き合うわけでもない。
ただ寝るだけ。そこにある互いの温かさを感じあうだけ。
ただ一緒に寝た時、もうふたりだけの秘密ではなくなりましたね、とつぶや
いたことを今でも覚えている。あの淋しさと静かさがまじった声に、俺はただ、
ああ、と頷いて答えるだけだったことを。
扉があき、光が射し込んできた。
翡翠がきたな、と何気なくそちらを見ると――――。
ドクンっ
心臓が跳ね上がった。
あり得なかった。おかしい。そんな、バカな。
目の錯覚だ。夢だ。そうでなければ、いつのまにか寝てしまって夢を見てい
るんだ。
いるわけないのに。
琥珀さんがいるわけなんて、ないのに。
でもそこに立つのは琥珀さんで、琥珀さんでしかなくて。
わからない。ワカらない。ワカラナイ。
だから、俺は――――。
琥珀さん
と、意識しないままに呼びかけていた。
呼びかけた途端、琥珀さんはびくんと躰を震わせた。
そして、涙がひとしずくこぼれ落ちた。
その翠の瞳から。
―――――――――――――――――――――――アア
そして琥珀さんはふりかえって走り逃げ去っていく。
パタパタというスリッパがたてる間の抜けた音。
わからない。ワカらない。ワカラナイ。
なぜ翡翠がそんなことをするのか。
なぜ翡翠が琥珀さんの格好をしたのか?
何故? なぜ? ナゼ?
ただ――――足音だけが呼んでいた。
翡翠の足音が哀しそうに俺を呼んでいるのだけがわかった。
俺は何の迷いもなく、呼ばれるままに翡翠を追いかけていた。
《つづく》
|