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キミのシアワセはボクの
阿羅本 景
「志貴さん志貴さん」
そんな声で廊下で呼び止められて、俺は振り返った。
こんな風な呼び止め方をするのはこの館に一人しかいない。和服にエプロン
の七夜さんが、俺の袖をくいくいっと指で引いている。片袖で口元を隠して笑
っているので、俺もそれに合わせて相好を崩す。
「なに?七夜さん」
「一つお願いがあるんですけどね、志貴さんにお願いして宜しいですか?」
それなら普通に頼めばいいんだろうけども、後ろからくいくいと袖を引くと
いう仕草がいかにも何か言いたげで……おれはすぐに頷かなかった。なにか七
夜さんらしく妙な事考えてるのかなぁと思うと……まぁ、きっと他愛のない事
じゃないかと思う。
七夜さんは袖を離すと、ぺこりと頭を下げる。一応はお願いの形を取ってい
る……ので、大体の事は聞いてあげるつもりだった。
「……翡翠ちゃんを街に連れ出してもらえませんか?」
「へ?」
……意外なお願いもあったものだった。
そう聞くだけでは別に大したことはない様だったけども、翡翠の日頃の生活
パターンを知っている人間からすればかなりびっくりする類のお願いだった。
翡翠がこの遠野家の屋敷から出るのは稀な事であった。忙しいですし外には
あまり用がありませんので――というのが翡翠の言い分であったが、それ以上
に外に出たがらない。
そんな翡翠を俺に連れ出せというのは、まぁ、びっくりというか。
「……そりゃなんでまた」
「うーん、そーですよねえ、志貴さんはそう思われますねぇ……」
俺が何の衒いもなく聞き返してしまうと、七夜さんもぽむと掌を合わせて困
ったような顔になった。悪いコトをしている……という気分ではないが、なん
となく妙な雰囲気を感じ取るというか。
……よくわからない。
七夜さんは左右を見回すと、俺の耳を摘んで下げようとする。
これはひそひそ話という事だろう。誰かに聞かれたくない……という心理表
現か。
「なになに?七夜さん」
「えーっとですね……翡翠ちゃん、どうも私と一緒にいるとくつろげないみた
いに感じるんですよねー」
こしょこしょと耳に触る息がくすぐったいけども、話す口調は七夜さんその
ものだった。でも、いつもの朗らかなところは少なくて、困った声色を感じる。
まぁでも心底悩んでいると言う感じもしないんだけども……七夜さんらしいと
いえばらしい、なぁ。
しかし、翡翠が七夜さんと一緒だとくつろげない……というのは、俺も少し
同意するところだった。七夜さんと普通に呼んでいるけども、昔は翡翠の姉の
琥珀さんだった――四季と遠野家を巡る事件の後に、琥珀さんは記憶喪失にな
ってしまった。
それは、哀しい事ではあったけども、第三者的な見方が許されればそれが幸
福なことだったと思わなくもない。
でも、それに俺は頷くことは出来なかった。小首を傾げて琥珀さんが喋るの
を促す。
「もしかしてこのままストレスが堪ると翡翠ちゃんに宜しくないので、志貴さ
んに翡翠ちゃんをどこかデートに連れ出していただけないかなぁって……変か
ねー?志貴さん?」
「いやぁ……」
なんと言えばいいのか分からない。姉の七夜さんが翡翠をデートに連れ出し
て欲しいというのは確かに変な申し出だったけども、それが七夜さんなりの思
いやりだと思えば納得できない事もない、確かに。
……でも、翡翠をどこかに連れ出すというのが大仕事のような気がしてなら
ない。
「……でも、七夜さんが俺と翡翠にデートしろって言うのはちょっと意外な…
…」
「なにを仰るんですか志貴さん、私も翡翠ちゃんの事を思えばこそ志貴さんに
折り入ってお頼みしてるんですよー」
「私の事がどうかしましたか?姉さん」
――!
驚いて俺と七夜さんが同時に振り向く。
さっき左右を見回したときには居なかったはずなのに、気が付くと五歩の距
離にすっくと背筋を伸ばして翡翠が立っていた。メイド服に眩しい白いエプロ
ンを着けて、俺と七夜さんを深い蒼の瞳でじっと見つめている。
……知らずに七夜さんの声が大きくなっていたらしい。
二人とも跳ね退いて、何でもないという笑顔を同時に浮かべる。怪しい、翡
翠じゃなくても怪しいと俺と七夜さんの動きを見れば感じるはずだ。
七夜さんと軽くアイコンタクトを交わす――俺がこの場を上手くとりまとめ
ろと言うことか。
「えーっと、あれだな、翡翠」
「……なんでしょうか?志貴さま」
「温泉行きたくないか?」
――我ながら唐突な提案であった。
わからない。なんで俺の行動の選択肢の中に『温泉』があったのだかがさっ
ぱりわからない。でも、俺の本能は翡翠と温泉という方程式の解を見いだして
いた。七夜さんも突拍子もない俺の意見に目を丸くしている。
翡翠もそれは同じだった。俺の言葉の風でも受けたかのようにかすかに踵に
重心を動かして立っている。目に疑問を浮かべながら、俺に尋ねてくる
「……温泉ですか?」
「そう、温泉。熱海も草津の湯治場も良いけども、近場の温泉も悪くはないぞ?」
「私は良く存じ上げておりませんが、志貴さま……」
「有彦のヤツが宿は取ったけども結局キャンセルになりそうな温泉行きの話が
あってね、俺にキャンセル料勿体ないから行かないかって話があったんだ……
そうそう、だから翡翠と一緒に行こうと思って」
立て板に水で俺はどんどん、さも既成事実があるかのように説明を加えてい
く。
でもよく考えれば有彦がペアの温泉宿を取っているなどというのは不条理だ
し、俺に何とかしてくれと頼む事もない。つまりはそんな事はありはしないの
だけども、それはそれ、今はなんとなく納得してしまう話の流れが必要なのだ。
七夜さんが翡翠の視界の死角で親指を立てている。
我ながらこんな嘘が得意になったのは喜ぶべきか哀しむべきか――常日頃、
秋葉という強豪の検事と戦っている経験は誰ではなかった。
翡翠はなんとなく納得はしていない様子だった。ま、当たり前ではある。
だがそんな翡翠の背中を押すような、七夜さんの援護射撃が始まった。
「そうですよー、翡翠ちゃんも志貴さんと一緒に温泉に行くべきですよー」
「ね、姉さん何を……」
「せっかくの志貴さんと二人きりの温泉旅行ですよ?もし翡翠ちゃんが一緒に
行かないんだったら、お姉さんが志貴さんと一緒に……」
「だ、駄目です、志貴さまとは私が行き………」
ナイス援護射撃、七夜さん。
七夜さんの誘導につられて、翡翠はつい俺と一緒に行くと口走ってしまった
のだった。確かに俺と七夜さんが二人で出掛けると言えば、翡翠はNOという
だろう……七夜さんになってこの辺の咄嗟の策の巧妙さは流石だった。
翡翠は言いかけた言葉を飲み込み、赤面して俯く。
うんうん、かわいいなぁ……翡翠のこういうのも。七夜さんがいなかったら
抱きしめて頭を撫でたくなるところだった。ま、その後に抵抗されるんだけど。
七夜さんは腕組みして、満足そうに頷いている。満願成就と言うところだろ
う、彼女にとっては――
「それでは決定ですねー、うんうん、良かった良かった」
「姉さんも一緒に温泉はどうなの……ですか?」
「翡翠ちゃん?秋葉さまに説明して、おまけに秋葉さまのお世話をしなきゃい
けないひとが居るから私の事は気にしなくてもおっけーですよー」
七夜さんは心配そうな翡翠にそう声を掛ける。そうだった、秋葉を説得する
という下工作を忘れていた……七夜さんはなんとかするとは言うけども、これ
も一つの問題だった。
翡翠は俺と七夜さんの顔を交互に、不安そうな瞳で見つめる。そんな事をし
ていいのかどうか教えて欲しい、と言いたそうな不安な素振りであったので、
俺は翡翠の肩を叩いて安堵させようかとも思ったけども――
そう言うのは逆に翡翠の不安を煽りかねない。
だから、俺は出来るだけ柔和な顔を作ると、翡翠を説得しようと――。
「俺とじゃ……嫌かな?翡翠」
「そんな事はありません……ね、姉さんも志貴さんもそう言ういい方はアンフ
ェアです」
「かも知れないけども、翡翠と一緒に行きたいなぁって……ね?」
ね?と頷きかけるとしばし翡翠の動きが止まって――紅くなった頬で頷いた。
あまり無理強いすると翡翠が反動的に拒絶されるんじゃないかと思ったけど
も、今回は杞憂だったらしい。伏し目がちに翡翠は俺のほうをちらちらと見つ
める。
「……そう仰られるのでしたら、是非ともご一緒させて頂きます。それに、姉
さんが秋葉さまのお世話をしなければ行けないように、私も志貴さまのお世話
が仕事ですから」
……それが翡翠なりの大義名分というものか、と思う。まぁそんな経緯はど
うあれ、結果は翡翠と一緒に旅行だ、嬉しいものだ、うん。
随分藪から棒で、おまけに温泉というのは瓢箪から駒だったけども。
「それでは、私は用がございますので失礼します」
「ああ、うん……がんばって」
一礼して足早に立ち去る翡翠。この屋敷の中は無駄なぐらい広いから、翡翠
には絶えずやる事があるんだろう。俺と七夜さんは翡翠の背中を見送り、角に
消えて見えなくなるともう一度辺りを確認してから――
「で、でも俺は温泉宿の予約なんか取ってないけども」
「安心してください志貴さん!今はシーズンオフですし、たとえ繁忙期でもお
部屋をとって見せますから」
口から出任せを並べた為に不安になった俺に、どんと胸を叩いて言う七夜さ
ん。
俺が旅行会社の門を潜るよりも、七夜さんが手配をした法が確実だろう。こ
ういう実務は専門家に限るし、まぁ事の起こりが七夜さんなのでこれくらいや
って貰っても罰は当たらないだろうし。
七夜さんは俺を見るとにやっと不敵な笑いを浮かべて……
「それにしても、志貴さんー?随分と嘘がお上手になりましたねー、志貴さん
はずっと嘘が付けない方だと思っていたのですが」
――七夜さんにそー言われる日が来ようとは思ってもおりませなんだです、
はい。
《つづく》
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