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一つの布団に枕が二つ。
これがロマンと情緒と言わずして、何を言うのだろうか。
びば・じゃぱねすく!
「……………むふっ」
風呂上がりの浴衣姿で戻ってきて、それを目にして俺はぐっと拳を握りしめ
ずにはいられなかった。夢にまで見た、夢のような、というか夢なのかこれは
と心配になるような。純和風の旅館の、落ち着いた和室。年経た黒い柱が静か
な垂直と水平の秩序を作り、遠野家とはまた違った重厚な空気を生み出してい
た。
温泉宿おなじみという、コイン式のTVとかもない二人部屋。
琥珀さんが手を回して取ってくれた宿は、南杜市から距離もなかったが県内
にこんな所があったのか、と感心する旅館であった。学生の俺と、流石のメイ
ド服姿ではなくワンピース姿の翡翠には格式が似合うのだろうか?とわずかな
不安を感じるほどの。
……まぁ、有彦がこんな宿取るわけないな。
俺は宿の構えを見て一瞬不安になったが、そういう宿の不自然さの指摘は翡
翠からは出てこなかった。まぁ、小学校時代からの付き合いと時々顔を見せる
客と、俺と翡翠の間での有彦観が違うのだから無理もない。
翡翠は質素だが清潔感のあり、密かに豪華な温泉宿を気に入っているようだ
った。それまでちらちら様子を窺い、心配してたのだけれども。
そして夜――
混浴ではないのが残念だったけども、浴場は広くて快適だった。混浴だから
と言って翡翠と一緒になれるわけではなく、むしろ下の階のツアーのおばちゃ
ん達と居合わせる可能性の方が高いだろうし、本当はあの遠野家の大浴場の方
が広いのだけども――文句はなにも言うまい。
まだ翡翠は戻って来ては居なかった。一緒に入りに行って、一緒に出て来た
かったんだけども入浴時間が男女では違うから仕方ない。先にお戻りください、
と翡翠にも言われていたし――
俺は布団の上に胡座を掻く。湯上がりの身体が沈とした部屋の空気に微かな
湯気を立てていく……窓と廊下の向こうにわずかな物音がするが、遠野家と違
う、人の気配のある静けさが漂っている。
「しかし……翡翠と二人っきりで温泉かぁ」
我ながら口に出して呟いてみるが、不思議な感じがする。
翡翠というと初対面からメイド服だった。確かに幼い頃の記憶では普通の子
供であったけども、意識に色濃く残るのはどうしてもメイド服できっちりと背
筋を伸ばし、怖じることなく俺を見つめる翡翠の姿であった。
それが、今日は朝から白いワンピースで……ワイドブリムの帽子の影に見え
るその微かに憂いを秘めた顔は、翡翠と一緒にいるのと違う、胸の奥で心臓が
高鳴るのを感じさせてくれた。いつもの翡翠には確かに馴れ馴れしくはしづら
いけども、まるで今日の翡翠は初恋の恋人とデートするような……そんな……
「……わからないなぁ」
俺は口にする。昼過ぎに宿に入って、それから飛ぶように時間が過ぎた。
実際俺は何をやったのか良く覚えていない。気が付いたら宿の食事をが終わ
っていて、風呂に立つところだった。浮き足立っている俺にはなんというのか
苦笑が……
俺にとっての翡翠と、翡翠にとっての俺は――どうなんだろう?
あの、悪夢のような日々が俺の中でリフレインする。四季と秋葉、そして琥
珀を巡る悲劇の末に、おれは翡翠と結ばれて――いろいろ、失われるものが多
い日々だった。それでも俺には翡翠と共に暮らせるのが、何よりも嬉しくて。
でも、翡翠は――やっぱり嬉しいんだろうか?昔のあの陽気だった少女がい
まの物静かな翡翠になってしまっても、俺の事が好きだった……それが今日ま
で……
ごろり、と布団の上に横たわる。
畳の上に敷かれた布団は、久しく味わなかったしっかりした寝心地を感じさ
せてくれる。俺は天井の木目を眺めながら、考えるでもなく翡翠の事を思う。
――翡翠が幸せであれば、それでいいんだ。
俺なりの結論というか……俺にはそうとしか思えなかった。とかく、様々な
ものが傷つき失われていく中ではそんな、身の丈にあった幸せが得られるのが
何よりも大事で……
「……失礼します、志貴さま」
ほとほとと戸が鳴り、静かに開く。
首を上げると、そこに居たのは――翡翠だった。白地に藍の旅館の浴衣はほ
っそりとした翡翠のシルエットをより際だたせてくれるような。翡翠は俺の方
を見ているようだった――正確には、俺の背後にある仲良く並んだ二つの枕。
「…………」
「………………ああ、これ」
翡翠の顔が紅いのは、あながち湯上がりで上気しただけじゃないだろう。
俺も視線の先を追って、何と言っていいものかと首を捻る。翡翠には旅館の
人を邪魔しちゃいけないと言ってあるから、この布団を用意してくれたのは仲
居さんだろう。にしても、その、あらためて見るに……
……なるほど、恥ずかしいものだ。
「翡翠……」
俺は翡翠に声を掛けるけども、それから後の言葉が続かなかった。この布団
の事を話そうとしたのか、今日の出来事を話そうとしたのか、これからの事を
話そうとしたの、それともさかのぼった過去の事を話そうとしたのか――わか
らない。
俺は翡翠に呼びかけると、口を噤んでしまった。翡翠もぎゅっと浴衣の袖口
を握り、この客間の敷居を前に立ち止まっている――目にはしばし焦慮の色が
見えて。
ゆっくりと、裸足の翡翠が畳を踏む。
畳表と畳が小さく擦れ、撓う音が聞こえる。俺は息を殺して翡翠を見守って
いた。
いつも靴の中に隠されている翡翠の足の指は綺麗にそろっていて――つい手
にとって接吻したくなるような可憐さであった。いや、今日の翡翠は言葉少な
で、それでいて艶があって。
浴衣や湯上がり――という以外の何かが翡翠という素材を、別の色で照らし
上げて俺が今まで見た事がない姿に映し出しているように。
翡翠は畳を渡り、布団の前まで来ると再び立ち止まる。ココを渡るのは翡翠
でも勇気が要るのだろうか――俺と翡翠がこういう関係になっても、翡翠は何
時までも初心であった。
もどかしい時間が流れる。いっそ翡翠の手を引き、この布団の上に押し倒し
たくなる……そんな衝動に駆られるほどの。
「…………」
だが、俺はじっと我慢して翡翠を待ち続けた。
翡翠は俯いたままで、無言で……ゆっくりと足を上げた。そして、布団の上
にそれが触れたか触れないかのうちに、腰が降りていく。
胡座に座り直した俺の前で、翡翠が正座する。二人ともあらためて目線を合
わせて向かい合う……肌がかっかと火照り、心臓がいつもより大きく鼓動を胸
郭に響かせる。
「志貴さん………この旅行は、姉さんの計画だったんですか?」
ぽつり、と翡翠はそんな言葉を口にした。
その瞬間俺は――驚きあわてふためいき弁明を口にして宥めた、訳ではなか
った。ただ時計の秒針が六十秒立つと分針が一つ進むのを見つめるように、あ
あ、と……妙な悟りが俺の中にあった。
こうなる事は……予想はしていた。
翡翠も勘は悪くないから、それくらい気が付いていたんだろう。だた、口に
するのが今の今まで遅れていたというだけで。俺は膝に手を置くと、何も言わ
ずに頷いた。
それで翡翠に怒られ罵られるのなら――仕方なくはある。
「きっと、姉さんは私が側にいると気が休まらないから……志貴さんにお願い
して、私と一緒にしばらく外出するようにお願いしたのですか?」
……その問いの方が俺には意外だった。
背中を屈めたままで、手で顔をぺろりと撫でる――翡翠を旅行に連れ出す、
そういう結果に繋がるにもかかわらず、翡翠と七夜さんは全く逆の事を考えて
いる。なんというか、意外というか、翡翠と七夜さんだからこそというか……
よく、わからない。
――翡翠も、七夜さんも、よく分からないんじゃないんだろうか。
「いや……どうなんだろうな。七夜さんが言い出したのは事実だけども、七夜
さんは……自分が居ると翡翠が気疲れしているから、って言ってたよ」
「姉さんが………そんなことを?」
翡翠は顔を上げて、すこし怪訝そうに俺を見つめる。翡翠には俺を非難する
気は無いんだろうけども、それでも心の中でちくりと刺さるような、微かな違
和感。
翡翠は七夜さんがストレスを、七夜さんは翡翠がストレスを抱えているから
――と言う。
ただ、それはこの二人の相互の見方であった。
俺には、七夜さんや翡翠にストレスが見受けられるかというと……正直分か
らない。秋葉の奴ならその辺は敏感なのだろうが、あいつが言い出さないとな
ると……
「でも……姉さんは記憶喪失で、きっと私が側にいると自分の過去に対して不
安になる筈です。それに、志貴さまも秋葉さまも、姉さんの……琥珀姉さんの
……」
琥珀。その名前が翡翠の口に上った。
俺は翡翠をじっと静かに見つめると、首を振った。何かが、分かった気がし
た。
翡翠と琥珀。翡翠と七夜――やっぱり二人は双子なんだ。
「………」
ただ、琥珀さんの名前が出た事で、なんとなく気まずい雰囲気が漂った。
翡翠ははっと口を噤むと、膝の上に手をぎゅっと握って俯いた。俺も翡翠を
見つめていられず、つい視線を逸らす――俺が次の言葉を口にするまで、どれ
だけ時間が掛かった事か。
酔客らしい大きな声の宿泊客が廊下を通り過ぎていく音を聞く。
白熱灯の光が俺と翡翠の影を布団の上に形作る。俺は心に浮かぶ、文章にな
らない言葉を唇に乗せる。
「やっぱり双子なんだなって、俺にはよく分からないけども……翡翠と七夜さ
んが感じているのは、お互いのどちらかが持っているかもしれないし、本当は
持っていないかも知れない。持っていないけども相手が持っていると思いこん
でいる事で影響しあって……ああ」
何を言ってるのか、自分ではよく分からなかった。
訳の分からない事を口にしたもどかしさと恥ずかしさに頭を掻こうとすると、
翡翠が顔を上げるのが見えた。それは、いつもの硬い翡翠の顔ではなく、なん
というのか――
――泣きそうな顔だった。
唇が震える、そして翡翠が何かを言おうとする……けども。
俺は腕を伸ばして翡翠を抱きしめた。
浴衣越しで肌と肌が近く感じる。風呂上がりの翡翠はいつもより暖かく、水蒸
気と石鹸の香りがして――俺の腕の中で一瞬翡翠が身体を強張ったような気が
した。
でも、俺はそのまま翡翠の唇にキスをした。
柔らかい唇を奪い、翡翠の言葉を俺は接吻で奪ってしまう。今は言葉で何か
が生み出せる時間だとは思えなかった。舌が翡翠の少し開いた唇と唇の間に忍
び込む。
胸が高鳴る。鼓動が翡翠の身体に染みこんでしまいそうなほどの。
俺は目を閉じ、翡翠の唇に神経を注ぐ。翡翠のぷにりと柔らかい唇が触れ合
う感触は――何とも言えず心地よい。舌が侵入すると、小さくそろった翡翠の
前歯に触れる。
そして、翡翠の舌が控えめに俺を迎えてくれる。つんつん、とお互いの舌を
触れあわせると、俺は名残惜しそうの一度顔を離す。
「ん……ん」
ちゅぷり、と唇が小さな音を立てる。
目を閉じていた翡翠が瞼を上げる。瞼と眼の間に、涙が貯まっていた。指を
伸ばしてそれを拭くと、静かに言う。
「でも、事の起こりはどうあれ……俺は翡翠と一緒の時間を過ごしたかったん
だ」
「秋葉さまや姉さんと離れて、ですか?」
「それは関係ないよ。でも、こういうのも……一度してみたいと思ったから。
だから、ここにいるのは俺の意志だ……翡翠も俺と一緒に居たくないのか?」
ちょっと秘境な質問だったけども、俺は翡翠の眼を覗き込みながら尋ねた。
翡翠の瞳がはっと一瞬躊躇うように動いたけども、すぐにまた泣きそうな瞳
になって……
「……そういう質問は意地悪です、志貴さま」
「ごめん。でも……翡翠……好きだ……共感とかそんなことよりもなによりも、
翡翠の事が……欲しい……」
俺はもう一度、翡翠と唇を合わせようとした。
唇が触れるまでのわずかな時間に、翡翠の唇が動いた
「私も……志貴さま……」
《つづく》
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