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余香
阿羅本 景
「行ってらっしゃいませ、志貴さま」
「ああ、行ってくるよ、翡翠」
そんな二人の声を、私は聞いたような気がしていた。
だが、その声は私の耳に入ったわけではない。硝子越しに見下ろす玄関ポー
チの風景……学生服で鞄を提げた志貴が、翡翠に丁重に見送られている。
頭を深々と下げる翡翠に軽く手を挙げて応えるとくるりと踵を返す志貴。志
貴の姿が遠く、この家の噴水を越えて見えなくなるまで翡翠はじっと頭を下げ
ていた。
そんな朝の風景を、私は二階の窓から覗いていた。
秋葉は早くも車で学校に向かっており、志貴もこうして向かっていく。居候
である私はそれを見送るばかりで――学校というか学院というか勉学のでしか
育たなかった私は、何となくそれが羨ましい様にも感じる。どこか、所属でき
る学舎があり、まだ学ばねばならぬ事はたくさんあるのだという事は……
硝子の窓に指を付きそうになるが、つと指を縮めて触れぬようにする。
この磨き上げられた硝子に指紋を残すのが、何よりも悪い事のような気がす
るからだった。いずれ翡翠が掃除するのであろうが――ここまで綺麗だと気が
引ける。私は顔を近づけ、息が白い曇りを作るのを見る――
志貴は消えると、翡翠はようやく腰を起こした。
たいした使用人振りのこの少女に、私はある意味感嘆の念を禁じない。この
ように徹頭徹尾使用人のメイドが板に付いた女性というのは昨今稀であり、姉
の琥珀とは一線を画しているとも。そして、そんな翡翠はある意味不思議な駄
目人間である志貴に尽くしている。
この屋敷の居候である以上、二人の関係を目にする事はある。志貴はごく自
然に翡翠にいろいろ命令をして、翡翠もそれを静かに引き受ける。志貴はそう
いう貴族の使用人慣れしている物腰ではないのだが、こと翡翠に関しては自然
に見える。
何かその辺りに、感情の絡んだ何かがあると推測される――忠誠や職務意識
もあるが、それ以上の感情的関係を。
「……馬鹿な、遠野志貴の思い人はあの翡翠ではない。真祖の姫君アルクェイ
ド・ブリュンスタッドではないか……」
口の中でそう呟く。言葉にする意味もないが、口に出さないと納得できない
感情があった。
――そして、それは私でもない。
その一言は口には出せなかった。口惜しいが――そういうことだ。そうでな
くては私がこの日本の地に足を記した意味がない――ない……か?もっと正確
な状況評価から現況の判定を下せば……
私は頭を振った。どうも、昨今邪念が多い。
昔の研いだ剃刀のような思考が錆びた訳ではない。だが、学院の重圧や迫り
来る死徒化の恐怖、タタリへの緊張がゆるんだ今は少しはそう言う事を考える
思考的な余裕が出来ていたということか。
「……さて、今日も書庫を貸してもらいましょう。あそこが一番落ち着ける」
私は硝子窓の前から離れると、鍵の管理人の琥珀を探して歩き出す。今なら
まだ使用人たちの朝食を用意中だからキッチンにいるだろう。私が二人を邪魔
しないためには、あの書架の立ち並んだ書庫の中が一番であった。あそこなら
静かに思考に耽る事が出来る。
ただ、窓の外が気になって――一度だけ振り向いた。
そこには、もう誰もいない静寂の冬の庭園だけが広がっていた。
《つづく》
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