|
『夕暮れ時の眠り姫』
作:しにを
「志貴さま、失礼致します」
ドアを開けて、翡翠は軽く一礼をした。
今まで両手で持っていた荷物を片手で支え、空けた手でノブを握る体勢。
少し胸を反らすようにして、その布の山を崩れないようにバランスを取る。
彼女の主人がいれば扉を支えるなり、そのシーツと掛け布団とを手早く受け
取るなりをしただろう。
だが、あいにく部屋には誰もいなかった。
さっきの翡翠の言葉に対して、返事をする者は存在しない。
もっとも、翡翠自身もそれは最初から承知していた。
むしろ、まだ下校時間にすらなっていない今の時間に志貴が部屋にいたら、
他ならぬ翡翠自身がいちばん吃驚したかもしれない。
志貴がいるいないに関わらず、その私室に入る時に礼を欠かさないのは翡翠
の常の振る舞いだった。
夜の見回りの時などは出来るだけ音を消し去り、眠りについているはずの主
人の妨げにならないよう注意を払うが、入室と退室の挨拶、そして「おやすみ
なさい、志貴さま」という言葉を忘れない。
以前からもそうしていたが、最近はより意識してメイドと主人という関係を
形として表している。
自分自身に、志貴に、そして他の面々に対して。
それは、志貴との距離が縮まってから。
遠い日からの想いがかなってから。
ぎこちなく、初々しい、恋人としての新たな関係となってから。
志貴と二人の時とは違う。
いろいろと騒動があった挙句に、二人の関係は秋葉と琥珀にも認知されては
いる。しかし今でも翡翠は志貴付きのメイドである事は変わりなく、監視とは
言わぬまでも好奇や評価といった色を様々に含んだ視線を前に、始終べたべた
としている事は出来なかった。
いや、たとえ黙認されていたとしても、少なくとも翡翠はけじめを持って志
貴に接していただろう。
自分の仕事にささやかな誇りを持っており、志貴の世話を焼く事に職業意識
以上の喜びを持っていたのだから。
それを疎かにする事は彼女には無理だった。
志貴とも話し合って、そんな二人の関係を築いていた。
翡翠とは違い志貴はそんなきっちりとしたけじめを保つ事に対して不満が無
くもなかったが、恋人のお願いに逆らう事などは出来なかった。それに翡翠の
姉や志貴の妹の存在を省みれば、あえて地に乱を起こさないのはどう考えても
正しい判断だった。
その代わり、心おきなく恋人の関係になれる時には、志貴と翡翠はその枠組
みから外れて二人だけの世界に浸った。
反動として、歯止め無いほどに……。
ともあれ、今現在はまだ日の照っている午後の時間であり、束の間の逢瀬を
隠す夜の帳はまだ訪れていない。
翡翠は部屋部屋の掃除を済ませ、細々とした仕事に掛かっている処だった。
志貴の部屋を訪れたのも、ベッドのシーツを替えたり、夜など肌寒くなった
時のために少し厚手の毛布を準備する為だった。
机にいったん手にした毛布とシーツとを置いた。
そして目覚めの際に簡単に整えられているベッドの様子を見て、翡翠はしば
しどうしようかと考える。
タオルケットを畳んで脇に置いて、今の掛け布団はそのまま。そうするとち
ょうど良さそう。
そんな判断をして、翡翠は靴を脱ぐと、志貴のベッドに膝立ての姿で乗った。
そう巨大なベッドという訳では無いが、外側から回り込んだり手を伸ばした
りで作業をするのは、翡翠には少々やり難かったから。
別段変わった事ではなく、秋葉の寝台に対してであれ、同じように作業をす
る事は良くある事だった。
四つん這いの格好で歩くと、マットレスが柔らかく撓む。
ふと辺りを見回すと、何度となく同じ行為をしているのに、初めて気がつい
たように目に映る。
広いシーツの海。あまり馴染みの無い角度からの部屋の眺め。
志貴さまが寝ている時には意識しないけど、結構大きい。
当たり前ね、だって二人で寝る事も出来……。
連想的に考え、翡翠は思考停止する。頬が真っ赤になっていた。
自分が思い浮かべた事に対しての羞恥。
志貴がその場にいたら、そして翡翠が何を考えていたのかを察したら、にや
りと笑って翡翠をからかったかもしれない。二人で共にした事であり、翡翠だ
けが恥ずかしがるいわれは無いとと言うのに。
要は翡翠が思い浮かべたのは、このベッドの上での志貴との……、互いを良
く知る為の行為であった。
例えば数日前の夜に密やかに行われた事などを。
その日はあらかじめ約束は特にしてはいなかった。
ただ普通に翡翠が消灯の確認に訪れた時に。
志貴からおやすみのキスをと乞われ、翡翠の方から恐る恐る唇を寄せて。
軽い唇を合わせるだけのキスのつもりが、背に手を回され、強く唇を吸われ
て。
あげくに舌で閉じた唇を舌でノックされ、こじ開けられて。
息を交換し、互いに唾液を啜りあい、舌を絡めあって。
そして……、気がついたらベッドに倒れこむようにして翡翠は志貴と体を並
べていた。
刺激の強すぎるキスで頭に霞が掛かったようになりつつも、翡翠は思わぬ展
開に狼狽し、志貴の忍び寄る魔手を拒もうとした。
志貴は力づくでそのか弱い抵抗を封じる手には出ず、軽く押えただけ。
そうして、翡翠の耳元で囁く。
宥める言葉、おねだりの言葉、翡翠を溶かす言葉。
やがて、頷く翡翠。
抵抗は止まり、優しく手を引っ張る志貴の体に重なるようにして。
再び、唇が合わさり、また舌で互いを舐めあい、くすぐり合い……。
何ていやらしい事を思い出しているのだろうと、翡翠は真っ赤になる。
志貴さまのお部屋で、ベッドの上で何を考えているのだろうと自分を叱る。
そして仕事に戻ろうと動きかけ、翡翠はふと気がつく。
そう言えば、この格好。
これは、あの時の格好に良く似ていると。
猫や犬のように、四足になった姿。
志貴に言われてあの夜に取った姿。
今のメイド服でいるのとは違って、ほとんど何も身につけていなかった。
下向きで少しだけ垂れた胸の膨らみ。
剥き出しのお尻。
背中のライン。
全て志貴の目に晒していた。
後ろの窄まりも、志貴の指でやんわりとほぐされて露をこぼしていた花弁も
何も。
恥ずかしくてたまらない姿。
けれど志貴の視線を感じて体がむずむずとしてきたその姿。
そうだ、この格好のままで、志貴さまは腰を掴むようにして後ろから……。
克明に思い浮かべてしまい、翡翠は慌てて顔を左右に振る。
仕事の最中に考えるべき事では絶対になかった。
思い出したように仕事に戻ろうとして、布団に手を伸ばす。
だが、止まる。
顔の赤みはすっと引いていたが、まだ何か体が変だった。
意識せずに、翡翠はころんと横に体を傾けた。
ベッドに横たわってしまう。
そのままじっとする。
目を開けたまま、何もしない。
しかし、それでも変化が生じているのを感じていた。
微かな熱っぽさ。
じんわりとしたむず痒さにも似た何か。
それは、どうしたものなのかは翡翠にはわからない。
発情の表れであるとは想像が及ばない。
ただ、それでも本能的に、自分の体を抱くように身を縮こませた。
もじもじと腿が擦り合わされる。
だけれども、それだけ。
そこから何かをする術を翡翠は知らず、ただ浮かび上がった高ぶりを押さえ
ただけ。
ただ、擬似的な自慰ともつかぬ動きの中で、翡翠は志貴のベッドに顔を埋め
るようにして深々と息を吸った。
一度だけでなく、何度も。
それは落ち着かせるよりも、むしろ翡翠を新たな方向へと歩ませたのだが、
迷いのようなものは消えうせる。
「志貴さまの匂い……」
声にうっとりとした響きが混じっていた。
毎日掃除をし、シーツを交換し、寝具もマメに手入れしている。
それでもなお残る部屋の主の残香を感じ取ったのか、それとも志貴の眠る処
だという思い込みからなるものか。
何れにせよ、翡翠にとっては錯覚ではなく、胸に顔を埋めた時の体温と鼓動
と共に志貴の体臭までがありありと感じられていた。
姉や秋葉とは違う、どこか荒々しくも惹きつけ酔わせる男の香り。
いつしか翡翠は目を閉じていた。
そうしているとなおいっそう志貴を間近に感じられたから。
「志貴さま」
時折、呟く。
幸せそうに。
そして、その間隔が長くなり、いつしか途切れ……、しかし翡翠の体は横た
わったままだった。
静かな部屋に、注意深く聴いていなければわからないほどの小さな音がした。
規則正しい繰り返し。
すうという呼気の音。
いつしか眠ってしまった、翡翠の寝息。
「珍しいな、翡翠がいないなんて」
ドアのノブに手を掛けて、志貴は呟いた。
毎日、門の処でじっと立ち尽くしてのお出迎えなどという行為は何度も頼ん
だ末に、少なくとも毎日行うのは止めて貰っていたが、帰宅を察して玄関口ま
でやって来るのまでは阻めなかった。
もっともそうして現れる翡翠の姿は、志貴にとっては決して嬉しくないもの
ではなかった。特に、翡翠を意識して、意を決して告白してから後は、早く顔
を見たいという想いが、屋敷への坂を登っている途中でこみ上げてくる程だっ
た。
仕事で忙しかったり、帰宅時間がずれ込んでいたしとしても、そこかしこを
見て回れば、愛しい恋人の姿は屋敷内に大抵あった。
志貴を認めた時の花開くような笑顔、小走りに近寄ってくる様。
あるいは後姿を志貴の方で発見してそっと近寄って驚かせたり。
いずれも志貴の心を弾ませる。
触れ合うほどに近寄り、別にそれで止まるべき理由は無い。
自然に軽い抱擁、唇を触れ合わせる行為へと流れていく。
琥珀なり秋葉なりがいて、そんな真似が出来ない時も、視線だけは絡ませあ
い言葉以上に濃厚な交感を行う。
だが、今日に限っては翡翠の姿は見えなかった。
台所で下拵えをしていた琥珀に訊ねても、「翡翠ちゃんですか、そういえば
見ませんね」と首を傾げるだけ。
志貴のがっかりした顔に、何か言いたげな顔で笑みを浮かべる琥珀。からか
いの言葉でも掛けられぬ前にと、志貴は退散し部屋へと向かったのだが、やは
り微かな残念感が顔に浮かんだままだった。
「出掛けたってのは、ないよな。それなら琥珀さんに一言残していくだろうし。
もしかして俺の部屋で待っている……、いやありえないな」
夕刻になってから各部屋の掃除でもないだろうし、そうだとしても日が落ち
かけているこの時間だと、早めに明かりを点けている筈。しかし、外から見る
限りは、そんな事にはなっていなかった。
理性が翡翠の不在を判断し、感情が喪失感にも似た寂しさを覚えている。
それを自覚し、志貴は意外に思う。
こんなにも翡翠の存在が大きくなっているものだなと。
確かに翡翠の事は好きだ。誰よりもいちばん愛している。
でも、色々な過去の出来事があってその想いを自覚し、それから今の関係に
落ち着いた後も、翡翠が甲斐甲斐しく自分の世話をしてくれるメイドである事
は変わりなかった。
あまりに、近くにいることが当たり前な存在。
毎朝、目覚めの時に出会い、一番に言葉を交わし、学校へ行く支度をあれこ
れ世話され、見送られる。
帰ってくれば出迎えられ、夕食の後には共に過ごす。
休日であれば、二人で出かけたりもするが、基本的には屋敷の中で日々接し
ている事があまりに多い。
もちろん、翡翠のきめ細かい仕事振りには感謝しているし、そうして翡翠と
共に過ごす何気ない事が心和ませるのも志貴は自覚していた。でも、同時にい
て当たり前という意識があるのも確かだった。
それ故に、唐突に姿を見失うと、自分でも不思議なほど引きずってしまう。
本当に不思議だと、志貴は心中で呟いた。
とりあえず、着替えて下にいよう。
翡翠もそのうち姿を見せるだろうし、最近嫌味がちな秋葉を出迎えてやるの
も、たまには良いだろう。
気を取り直してドアを開けて、志貴は部屋に入ったた。
機械的にドアを閉めて、照明のスイッチに手を伸ばす。
「え?」
そのまま数歩足を進めながら、制服を脱ぎかけて、志貴はぴたりと動きを止
めた。
固まったまま、視線を一点に集めたまま、彫像のように立ちつくす。
「翡翠……」
ようやく言葉を発するまでに、濃密な十数秒が消化された。
そして自分の声で封印が解かれたように、ぱっとベッドに駆け寄る。
「翡翠?」
恐る恐る声を掛ける。
何故翡翠が自分の部屋に、それもベッドの上に横たわっているのか。
もっと間近に、他ならぬこのベッドで、触れ合うようにして共に眠りについ
た事すらあったのだが、昼日中にメイド服姿の翡翠がこうしているのは、どこ
か夢のような非現実感すらあった。
反応なしと見て、志貴は何度も呼びかける。だんだんと声を大きくして。
だが、翡翠は応えなかった。
声量と共に、志貴の体は翡翠に近づいていた。
志貴の上半身が覆い被さらんがばかりの格好になっている。
もう一度呼びかけようとして、志貴は大きく口を開けて……、止まった。
すうすうと安らかに眠っている翡翠。
それを声張り上げて破るのは、あまりに無粋に思えた。
「少し休ませておこうか」
どこか弁解じみた独り言が洩れる。
でもその自分の言葉で納得させられたように、志貴は表情を切り替えた。
どうしようかと戸惑う表情は、柔らかい笑顔に近くなる。
優しい目が、翡翠の寝姿に向けられる。
それも当然だった。落ち着いてその状況を眺めれば、無防備に寝息をたてて
いる恋人の姿は、あまりに愛らしく目に映ったから。畳み掛けた寝具やシーツ
を見れば仕事の最中であった事が見て取れる。そんな中でこうして寝入ってし
まっているのは、常日頃の翡翠からすると変なおかしさを感じさせた。
飽く事無く、志貴は翡翠の寝顔を眺めた。
微かな呼気。
僅かな動き。
全てどんな変化も見逃さずに見つめる。
「やっぱり可愛いよな、翡翠は」
思い出したような言葉だが、もちろん志貴は翡翠の魅力を日々感じているし、
客観的に見ても人目を引く美少女だとは思っている。
ただ、中身をさて置けば深窓の令嬢として通用する流れる黒髪の秋葉、輝く
笑顔を振り撒き、とにかく目立つ黄金色のアルクェイド等、志貴の周りに普段
存在している自己主張の激しい面々に比べると、相対的に目立たない存在であ
る事は確かだった。
埋没するような事はないが、翡翠は決して他を圧倒する存在ではないし、む
しろその控え目な魅力に志貴は惹かれたのは確かだった。
しかし、こうして間近でまじまじと顔を眺めていると、翡翠の事をきちんと
わかっていなかったような気にすらさせられた。
うん、こうしていると眠り姫みたいだな。
いつもなら考えもしないような言葉を、志貴は脳内で口走り、しかも真顔で
肯定したりする。
「と、言う事は、これで起きるかな?」
志貴はさらに身を乗り出して、翡翠の唇にくちづけした。
これまた、客観視すれば赤面するような行動。しかし志貴としては違和感は
無かった。
それに、そんな空想をしていなかったとしても、翡翠の唇をじっと見つめて
いればおかしな気分にもなる。
何度も触れ合っていても。
いや、何度となく唇を合わせているからこそ。
その翡翠の唇の感触を求める気持ちが湧き上がってくる。
軽く触れて、志貴はどうだろうと翡翠を見ながら顔を上げた。
くちづけはほんの僅かな間だったけれど。
相手からの反応もない一方的な触れ合いだったけれど。
翡翠のゼリーのような柔らかい感触、それは志貴の表情に意識せぬ喜色を確
かに浮かべさせた。
《つづく》
|