「な、なんだよ……これは……」
遠野の血。遠野の定め。悪鬼の系脈と宿命。
発狂の恐怖に脅える父の震える筆先。反転衝動、ケモノ、アキハ、そしてシキ
これが、狂える父の書き記した妄想であれば、と祈らずにはいられない。だ
が、志貴の理性はそんな逃避を許さない。なぜならば、身に経験した全てのこ
とが当てはまり、この槙久の言葉が事実であると認めているからだ。
――反転したシキ、アカシャの蛇ロアも同じ事を言っていた。
思わずページを開いたまま落としてしまった本を、シエルは黙って取り上げる。
そして、冷たい顔でその書き付けを読みとると、ギリ、と歯を噛み締める音
がシエルから聞こえるような気がする。
「やっぱり……ロアがこの血脈に注目するのも当然、か」
誰に聞かせるともなく、シエルは独白する。
転生者の条件として、社会的地位と特殊な能力者を選ぶロアが、長らく欧州
で行っていた転生を日本に移したのは、この遠野家の特殊な能力者の血筋ゆえ
であった。ほとんど全ての当主が生を全うできない、呪われた一族――ゆえに
ロアはシキを選んだのであろう。
シエルは黙って書き付けを閉めると、引き出しの中にしまい込む。
「先輩、でも……俺とシキとロアの事は分かったけど、秋葉のことはまだこれじゃ……」
「秋葉さんは、確かに遠野くんのお父さんの謂うとおり『古い血』の持ち主で
す。でも、これだけじゃまだなんで吸血行為に走るのかが分かりませんね。もっ
と何かが無いと……」
シエルは顔色の悪い志貴を心配そうに見つめ、書斎の革張りの椅子に座るよ
うに促す。勧められるままに椅子に着いた志貴は、背もたれに頭をもたれ掛け
させ、目を閉じて少しでも気分を沈めようとする。
まったく、呪われた様な遠野家の歴史。自分は養子であるがその影響から免
れていないようであるし、秋葉に至っては血の呪詛によって苦しめられている。
なんとかして、それから逃れる術はないのか――志貴は思い悩む。
椅子の上で身じろぎもしない志貴を心配して、シエルは一人で机の元を離れ
て部屋の中を物色する。しばらく書斎の中を上から下まで見回していたかと思
うと、壁の戸棚を一つ一つ慎重に空けていく。そして、作りつけの戸袋のよう
な棚を見つけ、そこを開く。
「あ、遠野くん。金庫がありますね……開けていいですか?」
「……開いてるの?それ」
「いいえ。でも、これぐらいならちょっと時間を貰えれば……」
黒い金属の小型耐火金庫を前にして、シエルはダイヤルシリンダーの上に手
をかざしてまた先ほどのように開錠の術に取りかかろうとする。だが、そんな
シエルの姿を見ると志貴は、先輩ばかりに無理させちゃいけない、とばかりに
机の上のペーパーナイフを手にとって立ち上がった。
「先輩、俺がやるよ。先輩ばっかりに働かせる訳はいかないもんな」
「え?私は遠野くんの使用人だから、かまいませんよ」
「……冗談ばっかり。俺は先輩をそう思ったことは一回もないよ」
志貴の言葉を聞いて可笑しそうに頬を緩めるシエルは、意地を張らずに金庫の前
を志貴に譲った。志貴は眼鏡をYシャツのポケットに仕舞うと、青い目で金庫の鍵
のあたりを凝視する。
シエルが見守る中、ペーパーナイフを金庫のシリンダーに当て、僅かに押し込む
と――まるでバターか何かで出来ているかのように、金庫の扉にめり込んだ。
志貴はペーパーナイフを引き、軽く息を吐くと急いで眼鏡を着け直す。そして、
おもむろに金庫のハンドルを握り、引く。
「……いつ見ても、遠野くんのその力ってびっくりしますね」
「鍵、壊しちゃうから先輩ほどでもないと思うけど……ほら、開いた」
ギィィィ、と金属の蝶番がきしむ神経質な音が響き渡る。金庫の中には古い昔の
空気が澱んでおり、防虫剤と埃と機械油が混じったような奇妙な匂いが広がる。
この中には、きっと遠野家の権利書や株式や印章が入っているのか――と思って
いた志貴は、その中身を見て拍子抜けする思いであった。
シエルも、志貴の後ろから金庫の中を覗き込む。
「……これだけ、ですかね?」
「そうみたいだね、先輩」
古びた子供用の日記帳と、書き込みのある便箋。
何故こんな物を後生大事に金庫にしまい込むのか、志貴には分からなかった。志
貴はシエルに振り返って目で尋ねてみるが、シエルも頭を振るばかりであった。
志貴は便箋を手に取り、立ち上がって目を通す。
そこに記された文字は、父であった槙久のものであった。先ほど見た引き出
しの中の書き付けと同じ字体だから、これも真筆に間違いはないだろうと思う
志貴であったが、何となく気になることがあり、便箋を持ったまま書斎の机の
元に戻っていく。
志貴は引き出しを開き、槙久の書き付けをもう一度広げ、便箋の書き付けと
並べて見る。
「……やっぱり、こっちの方が古いのか」
槙久の書き付けは、文字が著しく乱れている部分があり、まるで衰弱した病
人が書き込んだのではないかと思うほどに力のない文字が散見される。それに
比べ、便箋の方はしっかりとした筆行きを感じる。
きっと、書き付けは晩年の父の物なのだろう。それに比べると、この便箋は
往年の正気を保っていた頃の物なのだろう。志貴は書き付けを仕舞い、便箋を
手に取り椅子に腰掛けて読み出す。
日付は、あの八年前の夏の日から始まっていた。
誰か送るための手紙か、と志貴は思って読み始めたが、その内容を目にする
と志貴は、そんなことを全く考えられなくなってしまった。
「―――」
反転した遠野シキが、養子の七夜志貴を殺した事。
遠野シキが処断されたが、殺しきれなかったという事。
養子の七夜志貴を分家に移し、実子のシキを幽閉するという事。
七夜という殺人狂の一族の事。
そして、息子であるシキの復帰を祈る父としての槙久の想い。
「―――」
殺されたのは俺で、俺は何故か「七夜志貴」ではなく「遠野志貴」にされた。
消されたあの「遠野シキ」は、ロアの転生体になった。
「―――わからない」
そう呟くのが、志貴の出来る精一杯のことだった。
秋葉のこと、そして感応能力者だと書かれている翡翠と琥珀のこと。ロアに
まつわる過去には繋がり合う事実が数多く書き記されているが、秋葉のことに
関してはこれではまるで分からない。
志貴にとっては、この便箋は思い出したくもないあのロアとの凄惨な死闘を
思い出させる代物であった。思わずくしゃくしゃに握りつぶしてしまいたい衝
動に駆られるが、志貴は深呼吸をして己の苛立ちを沈め、便箋を机の上に置く。
志貴は椅子に深く身を沈め、目を閉じてしばらくは気持ちを落ち着けていた
が、シエルが自分の傍らにいない事が気になり、急いで部屋の中を見回した。
シエルは、金庫の前でしゃがんでいた。古い子供用の日記帳を手に取り、床
に膝を突いて真っ青な顔で食い入るように眺めている。いつもは何を前にして
も余裕のあるシエルにしたら、あまりにも硬い表情に、志貴は驚きを憶えた。
――なんで、シエル先輩は、吸血鬼と対決するような顔をしてるんだ?
シエルは、まるで周囲のことが目に入らないかのようにその日記帳に見入っ
ている。いや、呼んでいるというよりも、その本の魔力に魅入られてしまって
手を離せないというのが正しいかもしれない。
シエルは無言でぺらぺらとページをめくって行くが、その度に顔色から血の
気が失せていく。そして、最後のページをめくり、裏表紙に達すると日記帳を
閉め、まるで幽霊にでも会ったかのような顔で頭を軽く振る。
「先輩、どうしたの……」
「いいえ、何でもありません……ちょっと、気分が悪いだけです、すぐに直り
ます……」
シエルは日記帳を金庫の中に戻し、扉をゆっくりと閉める。
志貴の心配する声を耳にしながらふらりと立ち上がると、努めていつもの表
情に戻ろうとしているシエルの表情に無理を見た志貴が立ち、自分の代わりに
シエルを椅子に座らせようとする。
シエルはその志貴のすすめを断ると、ふーっ、と長く一息を吐いて書斎の机
にもたれ掛かる。まるで長い戦いか何かを終えたような疲れ切ったシエルの仕草。
志貴がそんなシエルに掛ける言葉を見いだせないでいる。
「遠野くん、その書き付けは……」
そう聞かれ、志貴は便箋の内容をまとめて話す。自分とシキの事をこうやっ
て他人に語るのはもどかしく、時には話が進みすぎたり逆戻りする志貴では会っ
たが、シエルはそんな志貴の言葉を眉をひそめて聞き入っている。
やがてその全てを語り終えると、シエルは目を閉ざして深い吐息を漏らした。
「これでなにか、分かったのかな……」
「ええ、ここまで分かれば十分です。なぜ、秋葉さんがあんな事になったのかも……」
シエルは一端言葉を止め、志貴の様子をうかがう。志貴はシエルの謎解きを
期待し、頷いて次の話を促す。
「その書簡に、遠野くんが一命を取り留めた、とありますよね」
「うん、シキは死ななかったとも……」
「その書き方は方便です。覚醒反転したロアに襲われたら、喩え転生体が子供
だとしても生き延びるのは至難の業です。だから、本当は……遠野くんは殺さ
れたけども、誰かによって蘇生させられた、と」
シエルの言葉は、志貴には言葉を失った。
自分が殺され、そして蘇った――そう聞かせられ、すぐに納得できる者はい
るのであろうか?志貴は信じられないように頭を振るのが精一杯であった。
シエルは、そんな志貴にゆっくりと説いて聞かせる。
「遠野くんが十歳より前の記憶がないのも、直死の魔眼という強烈な回路が開
いてしまったのも、死と蘇生が一番真っ当な説明なんですよ。
遠野くんの蘇生は、多分その場にいた、人に力を分け与えられる人間によっ
て行われた……誰だと思いますか?遠野くん?」
――そんなのは、一人っきりしか居ないじゃないか。
「秋葉、なのか……」
「そうです。おそらく、秋葉さんは『共融』で自分の魂を遠野くんに分け与え、
蘇生を行ったのでしょう。でも、それが秋葉さんには重荷になってしまった……」
シエルはそう言うと、口を閉ざして志貴の顔を見る。
志貴の顔も思い詰めた様な色が走る。志貴の唇は噛み締められ、血がにじむ
寸前の色が浮かんでいる。
秋葉は、遠野の血を受け継ぐ故に「遠野寄り」との衝動と戦わなければいけない。
それなのに、秋葉は志貴に分け与えてしまったために半分しか魂を持っていない。
秋葉は、志貴を助けるために苦しみ、足掻いている。
それなのに、志貴は――何も出来ない。
「じゃぁ、秋葉が血を吸うのは……」
「おそらくは、己を保ち続けるための力の補給として。でも、秋葉さんが血を
吸えば吸うほど、血によって魂は汚染されて行く……『遠野寄り』から逃れる
為なのに、秋葉さんは血のせいでどんどんそちらに引き寄せられて……」
シエルの言葉は、志貴には限りなく残酷なものに聞こえる。
志貴の理性は、シエルが極めて冷静に客観的事実を述べていることを理解は
していた。だが、それに対しての己の無力を感じるたびに、シエルの言葉に対
しての腹立ちを憶えてしまう。
先輩は何も悪くない――悪いのは、俺なんだ。
志貴は己の中の雑音を押しのけ、冷静になって考えようとする。だが、秋葉
の顔が思い浮かぶたびに、心は千々に乱れていく。
そんな内面の不安定さを押し殺そうとする志貴は、なんとか口を動かす。
「秋葉は、もう、ダメなのか……」
「いいえ、抜本的な対策が何かあるはずです……でも、秋葉さんが自発的に吸
血行為に身を染めているとは思えないんです、私には。
思い出して下さい。遠野くん、あの夜の光景を」
シエルの声に促され、志貴は庭から見たあの光景を思い出す。
秋葉は、琥珀に助けられながらあの和室の離れに向かっていった。
シエルに言われてみれば、あの光景はたしかにおかしかった。もし秋葉が自
発的にやっているのなら、琥珀を秋葉が引いていって然るべきだった。むしろ、
琥珀が秋葉を助け、子供に乳を与えるように秋葉に血を吸わせていた、と言う
方が自然だった。
ぞわ、という嫌な悪寒が志貴を走る。
琥珀さんが秋葉を救おうとして、誤って秋葉を追いつめている――
「……そんな、琥珀さんが間違って、秋葉を……」
そんな志貴の口から漏れた声を耳にすると、シエルは眉をひそめてじろり、
と志貴を一瞥する。
シエルの視線は重く鋭い。志貴がサファイヤの様な瞳に見つめられ、一瞬
たじろぐがすぐにシエルは頷き、視線を外した。
志貴には、その時にシエルの顔に諦めに似た感情が走った気がした。
なんで、そんな顔をするのかさっぱり分からなかった志貴ではあったが――
「じゃぁ、琥珀さんを止めないと、秋葉は……駄目なのか?」
「はい、おそらく確実に。でも今、吸血行為を止めると秋葉さんが急激に遠野
寄りになってしまう可能性もあります……」
じゃぁ、どうする――
袋小路に陥りかけた事態に苛立ちを憶える志貴を前に、指を組んで考え込む
シエルは無言だった。
(To Be Continued....)
|