「秋葉」
志貴の声が重々しく口から吐き出される。秋葉は、志貴を抱きしめたまま離
そうとはしない。あたかも、今生の別れを惜しみ、一刻でも長く愛するものの
体温を感じ続けようとするかのように。
「秋葉……それは出来ない」
志貴の口から漏れたのは、拒絶の言葉だった。志貴は自分に抱きつく秋葉の
身体を、秋葉の紅い髪を目にしながら、一言一言噛み締めるように喋り出す。
「俺は、秋葉を殺すことは出来ない。秋葉は俺の大事な妹だ……そんな大事な
秋葉を手に掛けることは、俺に出来るはずはない」
志貴にすがりつく秋葉は、目を閉じてその言葉に耳を傾けている。
秋葉はそっと口を志貴の耳に寄せて呟く。
「兄さん……私を大事に思うのでしたら、私が秋葉でいられる間に……」
「秋葉!止めろ!そんなことを言うな!」
感情に激した志貴の叫び声に、びくりと秋葉は身をすくめる。
志貴は、自分の耳元で死のことを囁き続ける秋葉を自分から引き離す。そう
して秋葉の肩を掴み、自分の前に秋葉を据えて話し始める。
そんな志貴の動きに抵抗し掛けた秋葉であったが、すぐに抵抗を止めて志貴
に掴まれるまま、その顔の前で俯く。
「秋葉。お前は……俺に命を分けてくれた。お前が命を分けてくれなかったら、
俺は生き延びる事は出来なかった……だけど、そのせいでお前は遠野の血に……」
兄さん、今更そんなこと言わなくても――秋葉はそんな兄に言い返そうとす
るが、目の前の志貴の思い詰めた表情に気圧され、言葉を発する事が出来ない。
志貴は、自分の前に秋葉を見つめ、その肩を握る手を外した。
「……だから、秋葉。お前のために、俺は分けてくれた命を、返す時が来てい
るのかも知れない」
志貴は、眼鏡のつるに指を掛け、するりと外してYシャツのポケットに押し
込む。
秋葉は、そんな志貴の一挙手一投足を見守る。眼鏡を外してしまい込んだ志
貴は目を閉じて静かに息を揃え、次の言葉を口に乗せる。
「秋葉を助けるには、これしかない……秋葉。分かってくれ」
志貴がズボンのポケットに手を入れ、何かを引き抜く。
秋葉はそれが何で、志貴が何をしようとしたのかがすぐ分かった。分かった
からこそ、迅速に動かなければならない。幸い、志貴と秋葉はお互い息を感じ
合えるほど側に近寄っていた。
志貴の腕がナイフを掴み、素早く刃を引き出す。
そして目を開き、自分の胸を差し貫こうとしたその瞬間、秋葉は両腕で志貴
のナイフの握られた腕を掴み、動きを押し止める。
「秋葉!」
「兄さんこそ、なにを考えているんです!」
秋葉は両腕で志貴のナイフを持つ腕を止める。志貴はいつもは力がない様に
見えるが、その実普通の男性以上に腕力はある。そんな志貴が逆手にナイフを
持ち、己の胸に突き立てる動きを秋葉は必死で両腕で止めている。
秋葉の両腕の腕力と、志貴の力が拮抗しぶるぶるとナイフの切っ先が震える。
「兄さんが死んだら、何の意味もありません!それならば私を殺して下さい……
私は遠野寄りなんです、もう、戻れないんです……
それに、兄さんにはシエルさんがいるんでしょう?私に生き残ってシエルさん
と顔を合わせろって言うんですか?兄さんは!」
「秋葉!俺は、秋葉を殺すことなんか出来ないんだよ……だから、こうするのが
一番なんだ。俺の命を返せば、秋葉は元に戻れる……」
二人の口調は必死であった。だが、ナイフを前にお互いがお互いを殺せと言い
合うこの光景は、奇異でもあり悲劇でもあり、第三者が見れば滑稽なものにすら
見える可能性はあった。だが、この二人は真剣そのものであった。
ナイフの切っ先がふるふると震え、その先に秋葉の胸が、志貴の胸が交互に擬
される。
「兄さん!兄さんが死んだらダメです!だから私が」
「秋葉……離せ、秋葉っ!」
二人の揉み合いは続いた。ナイフの刃先が二人に時には危ないほど近づき、
時には二人の間でどっちを向くともなく震える。やがて、どれくらい立った頃
だろう、必死の二人には一分も経っていないようにも、あるいは一時間が経過
したようにも思える曖昧な時間のその時。
「……二人とも、止めて下さい」
万力のような手が志貴と秋葉の腕を掴み、引き離す。
二人のナイフを握る手が放れ、猛々しい金属のエッジを闇の中に光らせるナ
イフがカツン、と音を立てて地面に落ちて転がる。
志貴も秋葉も、自分を引き離した手の持ち主の方を振り向く。いつの間にか
音もなくやってきた人の影を眺め、息をのむ。
それは、シエルであった。メイド服姿のままで二人の横に立ち、片腕で秋葉
を、片腕で志貴の腕を掴んでいた。
志貴も秋葉も、突然現れたシエルにまず腰を抜かす程の驚きを露わにする。
そして、二人がナイフを奪い合って自分を殺そうとしていた現場を見られたこ
とに気が付くと、二人ともばつが悪そうに黙り込んだ。
シエルはきっとした顔で二人の顔を交互に眺めると、口をとがらせて声を上
げる。
「二人とも、何考えているんですか。特に遠野くん!あなたが死んじゃったら
元も子もないでしょう、それくらい分かってください!」
「……ごめん、先輩……」
秋葉の前にも関わらず、二人のお互いを呼ぶ言葉は「遠野くん」と「先輩」の
ままだったが、二人も秋葉もそんなことを気にしてはいなかった。
志貴は手をシエルに掴まれたまま、なんとも決まりが悪そうにうつむいてし
まう。確かに、志貴自身の行動には向こう見ずなところが多く、今の行動も秋
葉を救うためにはそれしかない、という思いに駆られての行動だった。
故に、今こうやってその行為が未然に防がれると、ばつの悪い、恥ずかしさ
のような感情に支配される。志貴はちらりとシエルの顔を窺い、そこに怒りの
色を認めるとまた視線を逸らしてしまう。
一方のシエルは、そんな志貴の行き過ぎた自己犠牲の発想に苦渋していた。
かつて自分はそんな志貴のやり過ぎな行為によって助かったこともあるが、
いざ志貴の側に暮らし、自分を置いてきぼりにしかねない志貴の行動に直面す
ると、それに怒ったらいいのか、泣いたらいいのかよく分からない。
事の成り行きを心配し、この場にやってきた甲斐はあるというものであるが――
(To Be Continued....)
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