「遠野くんは、どう思っているんですか?」

 志貴は唇を噛みしめる。湯飲みを握る手が感情でかすかに震える。

「……俺は先輩と、別れたくない。もし先輩が教会の命令でどこかに行ったら、
俺は地の果てでも追いかける。もし出来るんだったら、先輩をさらってどこか
に逃げたい……無理かも知れないけど、そう思ってる」

 その言葉に嘘偽りは感じられない。
 志貴は目の前の畳を強く凝視する。そこに憎むべき敵があり、その死の線を
探り出しているかのような強い視線。
 シエルは、外の桜の枝から目を、そんな切ないほど思い詰めた志貴の姿に移
す。これが、そこまで自分を想い、自分を愛してくれる男の姿だと――

 シエルはそんな志貴に、柔らかく微笑む。

「……ふふ、心配しなくてもいいですよ。私、ずっと遠野くんと一緒にいますから」
「……本当?先輩!?」

 志貴はがばりを身を起こす。別れの言葉と哀惜の情ばかりが頭の中に渦巻い
ていた志貴は、望外の言葉に居ても立ってもいられずに腰を浮かし、シエル先
輩の元に詰め寄る。

「でも先輩、教会の埋葬機関とかは……?」
「辞めます」

 まるで、刃物で切るかのような言葉。

「遠野くん、覚えていないんですか?私、信仰と正義のために自発的にあの機
関に属していたわけじゃなかったんですよ?」

 シエルの前でほとんど四つん這いのような格好で話を聞いている志貴は、思
いの外に強い口調のシエルの言葉を聞いて思い出す。

 ロアの転生者であったシエルは、強大な魔力を持つ不死の存在として教会に
捕らわれ、何度も殺され、その存在を滅ぼし切れかった為に、逆に異端審問官
として利用されたという陰惨なシエルの半生の経緯を。
 本当であればシエルと死徒以上に、シエルと教会は遺恨の関係であった。た
だ、それがアカシャの蛇であるロアへの憎しみと言う点で利害が共通していた
為に協調関係が続いており、その因縁が解消された今となっては、手を取り合っ
て死徒狩りに明け暮れる謂われがない。

 故に、あっさりと教会を辞めると言うシエルの言い分も道理である。
 むしろ、ロアの滅亡後、遺恨が表沙汰にならず残務処理を行って、ここまで
関係が継続していたのが一つの奇跡だったのかも知れない。

 志貴は、そんな過去を持つシエルの、穏やか笑顔を見つめている。湯飲みを
掌に載せ正座で佇むシエルに、志貴はようやく胡座をかいて腰を落ち着ける。

「でも、先輩……本当にやめられるんですか?」

 志貴の心配も当然である。教会の秘密実戦部隊に所属していた人間が、辞め
るといってもサークルや部活を辞めるようにすぐにいくものかどうか――
 シエルもその事は焦眉の問題であるらしい。つ、と指先を眉間に会わせると
僅かに眉をひそめる仕草をする。

「この国は新旧東西の競合地帯なので、私が辞めてもすぐに追っ手は来ないと
思いますよ。それに私は機関の面子には好かれていませんでしたから、向こう
も良い厄介払いができた、と思うんじゃないですかね?私が辞めると員数も空
きますし」
「はぁ……」
「もし追っ手が来ても遠野くん、守ってくれますか?」

 ほんの少し悪戯っぽく微笑むシエルの言葉に、志貴はどう答えたらいいもの
か分からなかった。何よりも、埋葬機関の追っ手というものが、一体どういう
ものなのか――おそらくシエル先輩より壮絶な人間が来るものか、と思うと慄
然とするモノがある。
 
 でも、あのアルクェイドよりはマトモだ。今の志貴ならそう言いきれる。
 たとえ、どのような概念武装や式典刻印を用いた戦闘員が来たとしても、弱
り果てた状態でも空気が発狂するほどの威力を放つアルクェイド程にはなるまい。

 志貴は背を伸ばし、力強く断言する。そう、相手が誰であってもこの愛しい
先輩を守るためなら――

「もちろん、シエル先輩のためなら」

 志貴の眼鏡にシエルの姿が映る。
 くすくす、とシエルはその言葉に笑って応える。目の前のそんな真面目な表
情の志貴の頭に手を伸ばすと、くしゃくしゃ、と髪を撫でる。

「くす、いい子ですね、遠野くん。
 でも、心配しなくても良いですよ。教会も敵対しない限り私を追っかけるほ
ど暇じゃないと思いますし。それに教会から借り受けた武器・装備の類はもう
返却済みです……経費の精算も終わっていますし」

 そこまで言うと、シエルは途端に困ったようにむむむ、と唸り声を上げる。
 俄に何事かに思い悩み始めた様子のシエルを、志貴は小首を傾げて伺う。眉
根を寄せたシエルは、深刻そうに――

「ううむ、経費……そこが厄介なんですよね。
 今まで教会の活動予算でやりくりしていたのですが、晴れて退職してしまう
と収入がないんですよね、どうしましょう?」
「せ、先輩?」
「遠野くん、教会の追っ手とか死徒とかそういうのは後回しできるんですけど
も、この資本主義の世の中ではお金だけは待ってくれない深刻かつ重大な問題
なんですよ?」

 そう説教されてしまった志貴は、はぁ、と頷く。
 確かに志貴も金を持っているとは言い難い生活を送っている。いや、正しく
は志貴には金がない、という物理的な障害が立ちふさがっているのではなく、
秋葉が財布の紐を握っている、という論理的な障害が存在するのである。

 だが、それは志貴にとっては金がないのも同然であった。ほとんど紙幣が入っ
ている事がない財布を意識すると、シエル先輩の身の上に吹いている世間の風
が、自分の戸口の隙間からも染み込んでくるかのようだった。

「死徒は黒鍵叩き込めば消滅しますけど、貧乏神はお金を叩きつけない限り無
敵なんですよ?これほどの強敵と事を構えないといけないかと思うと、まった
くの前途多難です。いけ好かないナルバレックからもっとふんだくっておけば
良かったかも、と今更ながら思いますよ、うん」

 そう言ってシエルはふぅ、と深く溜息をつく。そして、湯呑みから手を離し
て畳の上になにやら数字を書き、ぶつぶつと口の中で呟き始める。志貴には、
今の先輩が生活費の計算か何かをしているのではないのか、とも思いなんとな
く口を差し挟むのが拒まれる。

「取りあえず、この国にはこの筋のお仕事が存在するみたいですけども、今は
ツテがありませんからね。当面のバイトを何か見つけないといけませんし、そ
れに今のマンションも引き払わないと生活が楽になりません」

 確かにそう言われると、シエル先輩のマンションは豪華だったな、と志貴は
思い出す。何度もそこには世話になったこともあるし、あまつさえそのベッド
で愛を交わしたこともある。ロアの残留思念に苦しまされたのもそこだったが、
そう言われてみれば確かに学生の一人暮らしにしては豪勢な部屋割りだった。

 ――アルクェイドのマンションやホテルといい、あっちの世界の人間は金持
ちばっかりか?と思った志貴だったが、どうもその辺は各個人においては色々
事情が異なるらしい。少なくとも、シエルは公金で借りていたと言うことは確
かなようだった。

「うーん、不動産屋に行って物件も確認しないと……シーズンだからいいのが
あれば良いんですけどね。ああ、大変大変……」

 そう言って首を捻りだしたシエルを前に、志貴はふとある考えが思い浮かぶ。

 ――部屋といったら、たくさんあるじゃないか……

 そのアイデアは、はっきり言って無謀に思えた。どう考えても実現できそう
にないし、実現には容易ならざる障害が立ちふさがっているように思える。
 しかし、その計画をよくよく考えてみると、もしや乾坤一擲の一手なのでは?
と思えるようになってくる。障害は容易ではないことは変わらないが、実現した
ときの見返りは絶大な物がある。

 ――これは、いけるかも知れない。

 しばし生活費の計算と世間の煩雑時の雑想に追われるシエルの傍らで、志貴
は己の思いつきでしかなかった計画を形作っていく。そして、色々考えた結果、
それは不可能ではない――という段階まで練り上げると、志貴は口を開いた。
 シエルは、そんな志貴の言葉に耳を傾ける。

「先輩。一つ相談があるんだけど……いいかな?」

(To Be Continued....)