かくして数日の日々が過ぎ去った。
 終業式の朝に、志貴は相変わらずその彫像のような眠り貪っていた。寝相は
きっちりとしており、その顔が朝日と共にだんだん赤みが差してくる。

「はーい、遠野くん。朝ですよー」

 そんな声が志貴の耳には入ったような気がした。
 翡翠にしてはやたらに活発な声色だな――微睡みの中にいる志貴は夢現の意
識の中でそう思う。足音がぱたぱたとベッドの周りを駆け回り、カーテンを開
いて朝の日差しを部屋の中に招き入れる。

 瞼の裏が朝陽によって紅くなると、志貴はうっすらと目を開く。
 そこには、いつものように神妙な顔をした翡翠が――居なかった。

 その代わり、そこには見慣れない格好のシエルがこちらを見ている。
 なんで、こんな所にシエル先輩が――志貴には一瞬、何が今起こっているの
かの見当がつかないまま、じろじろと上から下まで見回す。

 濃い小豆色の長袖ワンピースと白いエプロン、それにヘッドドレス。間違い
ない、これは翡翠と同じこの遠野家のメイドの格好だった。で、問題はなぜそ
の格好をシエルがしているのかと言うことであった。

「おはようございます、遠野くん」

 そう朝の挨拶をされても、志貴は取りあえずなんと応えたものか分かりかね、
無言でこくこくと頷く。ベッドから上半身を起こし、メイド服姿のシエルをま
だ信じられないような目で眺めているだけであった。

「遠野くん、まだ目が覚めてないんですか?もしかして、翡翠さんにお早うの
キスをして貰わないと起きられないとか?」
「そんなことはありません、シエルさん」

 今度はいきなり翡翠の声が部屋の中に響き、シエルと志貴が飛びあがらんが
ばかりに仰天するする。ベッドの上であたふたしている志貴と、取りあえずこ
の部屋の中で逃げ場を目で探すシエルに構わず、翡翠はつかつかと志貴の傍ら
に歩み寄る。

「お、おはよう、翡翠。それに……シエル先輩」

 音もなく現れた翡翠にどぎまぎしながら挨拶をする志貴に、いつも通り業務
用の表情でベッドの上を見ている翡翠の前で、いつにもなく緊張している。
 その後ろで、こそこそとシエルが逃げ出そうとすると――

「シエルさん?」

 そちらに振り返ることもなく翡翠に呼び止められ、シエルはびくん、と足を
止める。そうして翡翠の方に向かって姿勢を正してみせるが、その表情には悪
戯を見咎められた子供のようなばつの悪さがあった。

「はい、翡翠さん。おはようございます」
「シエルさん、志貴さまの身の周りのお世話をするのは私の仕事です。シエル
さんは下の姉さんを手伝ってきて下さい」
「はい、分かりました……」

 しゅんとした表情でシエルはお辞儀をすると、そのまま軽く会釈をして部屋
から退出する。こうして、部屋には志貴と翡翠が二人で向かい合っているが、
志貴は目の前の翡翠の事よりも、なぜかしら朝からこの部屋にいたシエルの出
ていった方ばかりを見ている。

「翡翠……なんで、シエル先輩がメイド服を着て部屋にいたんだ?」

 疑問を隠しきれない志貴の声に、翡翠が僅かに表情を曇らせる。いつものよ
うに朝の志貴の支度をベッドの上にしつらえると、志貴の方に改めて向きなった。

「志貴さま。憶えてらっしゃらないのですか?」
「……いや、なにかあったっけ?翡翠」
「今日から、シエルさんはこの館で働き始める事になっております。そもそも
この件は志貴さまの肝煎りの筈ですが……」

 翡翠の言葉を聞いて、ようやく腑に落ちる志貴ではあった。思わず膝をぽん
と叩く志貴を、翡翠はいつものように冷静に見守っている。

 あの、秋葉の無茶もと言える切り返しの提案に苦慮した志貴ではあったが、
そんな心配をよそにシエルはその条件を飲んだのであった。唖然とする志貴の
前で、シエルはこう平然と言いきった物であった――良いじゃないですか、メ
イドさんなら切った張ったと縁遠いはずですし。

 そうして遠野家でシエルが働くことになったのであるが、朝っぱらの意識の
混濁した状態でその姿を見た志貴は、それが実感できずにこの体たらくとなっ
ているのである。

「志貴さま?」

 思わずぼんやりと自分の思考に耽っていた志貴は、静かな翡翠の声に意識を
呼び戻される。

「ああ、わかった翡翠。ちゃんと支度はするよ
 ……で、シエル先輩はどう思う?翡翠?」

 そう尋ねられた翡翠は、志貴から目線を話さずに即答する。

「それよりも、まず志貴さまがシエルさんを『先輩』とお呼びするのをお慎み
ください。使用人を『先輩』と呼ばれるのでは、主従の示しがつきません」

 いきなりずばりと切り込まれて、志貴は言葉に窮する。寝癖のついた頭をぐ
しゃぐしゃと書きながら、翡翠の言葉の意味するところを考える。
 ――この手のことに厳密な翡翠の言いそうなことだ。確かにそうかも知れな
いが……じゃぁ、先輩をなんと呼んだら良いんだ?まさか呼び捨てにも出来な
いし。

 そんな、些細だが深刻なことに思い悩む志貴に構わず、翡翠は言葉を続ける。

「まだ、働き始めたばかりなので私からはなんとも申しかねます。ですが……
前に使用人として働いた経験はあるのではないかと私は感じています」

 翡翠の言葉に志貴は反応し、頭を掻く手を止めて翡翠を見つめる。

「……先輩が?」
「……その呼び方に関しては追々ご注意いただくとして、私からはシエルさん
は素人には見えません。いえ、私の単なる思い過ごしかも知れませんが」

 翡翠の言葉には嘘が無いように思えた。確かに、メイド服姿のシエル先輩に
は、借りてきた衣装を着ているような違和感はなかった。
 でも、初めてシエルに志貴が出会ったときも、着慣れないはずの学校の制服
に違和感はなかった。もしかしたら、いつもの通りに暗示を掛けて働いている
のかも知れない――それに騙されないのは秋葉ぐらいなものだろう。

「ふーん、後で先輩に聞いてみるよ」
「志貴さま」

 冷たく一言言われ、志貴はまた先輩、という言葉を口にしていたことに気が
つく。翡翠の指摘はもっともであるが、だからといってなんと呼べばいい?と
志貴は問い返したい心地であった。
 取りあえず妥当そうなのは――

「御免、翡翠……シエルさん、だね。
 琥珀さんが朝食を用意して居るんだろ?すぐ行くと伝えて欲しい」
「かしこましました、志貴さま」

 翡翠が一礼して部屋を去るのを見送り、志貴は軽く溜息をついて朝の支度を
始める。今日は終業式だけで、気が楽だといえば楽だが――これから進路のこ
となどを考えると結構気は楽ではない。
 それに、シエル先輩が同じ屋根の下に働いている。最初は夢のような考えで
あったが、いざ実現するとなると結構気が重いことばかりである。

 制服に身を包み、時間を確かめてから部屋を出て階下に向かおうとすると――

「遠野くん」

 背後から声を掛けられ、志貴は振り向く。
 案の定、そこにはシエルがいる。メイド服の、朝に部屋で遭遇したままの姿。

「……翡翠さんに怒られちゃいましたか」
「まいったな、先輩……わかるのか?」

 シエルの困ったような笑いに釣られ、志貴もつい表情をゆるめてしまう。シ
エルは軽く後ろに手を組んで、軽くつま先でぽんぽん、と床を打って志貴の方
を見上げていた。

「ええ、遠野くんの顔にそう書いてあります。
 ……心配ですか?私がこの家で働くのが?」

 そう尋ねられ、志貴は曖昧な答えを口の中で呟く。心配と言えば確かに心配
であった――翡翠や琥珀さんは問題ないにしても、秋葉とシエル先輩の相性と
いうのは最悪に近い。おまけにその二人の関係が雇い主と使用人――そうなれ
ば、いかなる難事が出来するのか志貴には想像すら出来ない。

 そんな懸念を振り払うかのような、シエルの明るい声。

「安心してください、遠野くん。私はどこでも何でもやっていけますよ。
 ここは、遠野くんが居るからこそ働きたいんです……ふふ、もし秋葉さんが
あの条件を出さなくても、私押し掛けちゃったかもしれませんし」

 そう朗らか言うと、シエルは志貴を軽く手招きした。
 そんなシエルの素振りに志貴が引き寄せられると、シエルはすこし妖しい笑
みを浮かべ、抱きつくように志貴の首の後ろに手を回す。

「せ、先輩――?」
「翡翠さんはお早うのキスをしてくれなかったみたいですね。遠野くん……お
寝坊はいけませんよ」

 シエルの唇が、志貴の唇に接近する。
 二人の眼鏡と眼鏡が軽くこつん、とぶつかると、柔らかい唇の感触が触れる。

 ――熱い。

 その僅かな時間の感覚だけが過ぎ去り、シエルは唇と手をさっと離して距離
を置いた。朝から大胆な行動をとったシエルはすぐに身を離して一礼すると、
すたすたと志貴を残して仕事に向かう。
 恥ずかしさに赤らめた頬を隠すためか、志貴の方をシエルは振り返ることは
なかった。

 廊下には、ただ熱い唇に指を当てて、戸惑う志貴ばかりが残されていた。

(To Be Continued....)