「秋葉。せんぱ……シエルのことをどう思う?」
思わずいつもの癖でシエルを先輩と呼びかけた志貴を、じろりと冷たい瞳で
秋葉は眺める。リビングの中で秋葉と共にいて緊張が和らぐことがない志貴は、
その瞳の中で僅かに肩をすくめてテーブルの上のカップを手に取る。
リビングの抑えめの照明の中で、柔らかく志貴と秋葉の座るテーブルが映し
出されてる。窓の外は春の暖かみを帯びてきた闇が広がり、月も春靄に包まれ
ておぼろに輝いている。そんな庭の夜景の映る窓を背に、秋葉は僅かに視線を
逸らして答える言葉を探す。
「……まぁ、想像以上によくやっていると思いますわ」
それが、偽らざる秋葉の感想だった。
春休みに入ってから既に二週間ほどが経過し、この屋敷にやってきたシエル
もすっかり馴染んで仕事をしている。一階の一室がシエルの部屋となっている
が、その部屋を暖めることもなく、シエルはメイド服でこの屋敷のありとあら
ゆる仕事をこなしている。
元々外出するほどの友人もつき合いもそう持ち合わせていないない志貴であっ
たが、そうやって外で遊ぶ数少ない相手であるシエルが館から離れない以上外
出の、二人はしきりに館の様々な場所で顔を合わせていた。
庭で、廊下で、キッチンで出会う志貴とシエルは、二人っきりの時の呼び名
は「遠野くん」と「先輩」であった。もちろん、他の人間が居ると「志貴さん」
と「シエルさん」に早変わりするが、こっちの方の呼び方だとどうにも何かの
役を演じているような、落ち着かない気分にさせている。
「そう、秋葉も満足してくれたのか……安心した。
どうも、シエル先輩は昔、仕事でこの手の経験があるって言ってたから」
この館の管理者である琥珀と翡翠は、二人合わせると類い希な家事の管理能
力を持っている。この、廊下で短距離走が出来そうな館と乗馬が出来そうな庭
を持つ遠野邸を、この二人は過分なく運営している。
だが、それはあくまで二人一役であった。琥珀も翡翠も能力に穴があるのに
対し、シエルにはこれと言った能力の欠陥がなかった――敢えて言えば志貴に
対する敬いの心がないことぐらいであるが、これも二人の関係を考えると仕方
がない。
それに、シエルも身体能力が人間離れしている。その気になれば壁歩きをし
て天井まで駆け上がれるシエルのこと、掃除などは翡翠も文句の付け所がない
ほど上手くやってのける。
――味覚がちょっと個性的なのが問題かな?とも思う志貴であった。
「そう、兄さんはご満足かも知れませんね」
秋葉は、そんな志貴の言葉を聞くと少し膨れてしまう。
秋葉としては、兄の恋人としてやってきたこのシエルを出来るものならいびっ
て遊びたいものではあったが、想像以上によく仕事をこなすシエルに辛く当た
ることが出来ない。
秋葉には人の悪い部分もあるが、根本的には性根はまっすぐな女の子である。
ドラマの小姑みたいな真似をしたくてもできない――そう思うと、秋葉は溜息
の一つも付きたくる心地であった。
二人は話し合う話題を失い、しばらく黙ってカップを傾け合う。
かちり、と磁器のカップが秋葉のソーサーに触れて音を立てる。空のカップ
をテーブルに置いてから秋葉は目の前で言い出す言葉を見いだせず、大人しく
している志貴を眺める。
短い髪の端正な顔つきの兄。身体は剛健ではないが無駄なところはない。眼
鏡の後ろの瞳の中に映っているのは、多分私ではなくあの青い髪の同居人――
そう思うと、秋葉の中は切なさで締め付けられる。
どうして、どうして兄さんは私と同じ魂を持っているのに、私を振り返って
くれないの?なぜあの、兄さんを殺そうとした女の方ばかりを向いているの?
そう、時には叫んでしまいたい衝動に秋葉は襲われる。
だが自分が妹で志貴は兄という、兄妹のしがらみが彼女を捕らえて離さない。
ぐっ、と秋葉は拳を膝の上で握りしめる。
言い出したくても言い出せない思いの悲しみに、秋葉は――
「兄さん、飲みましょう!」
「え?」
突飛なことを言い出した秋葉に、志貴は唖然とする。
飲みましょう、というのは今飲んでいる紅茶のことではないよな、と志貴は
思う――もちろん、夜に「飲む」と言えばお酒のことであろう。学生が二人向
き合って飲むというのは不健康な行為であるが、秋葉にはその自覚はない。
それよりも、アルコールに強いとは言えない志貴に対して、秋葉はかなりの
上戸であった。時々琥珀を酌に飲んでいるようだが、下戸の節のある志貴はそ
れには相手はしていなかった。
「あ、秋葉、飲むって言うのは……」
「もちろんお酒です。ええ、兄さん、飲みましょう……今の私は兄さんとお酒
を飲みたいんです!」
「はぁ……左様ですか」
まさか、秋葉は自分への恋の悩みを発散させるために飲もう、などと言って
いると気が付く志貴ではない。立ち上がってそのまま自分をキャビネットまで
引っ張っていきかねない秋葉の様子を、どきどきしながら見守っているだけで
ある。
そして、そこに運悪く――
「秋葉様、志貴様。失礼いたします」
ノックの音と共に扉を開けて入ってきたのは、シエルの姿であった。俄に息
巻く秋葉の姿と、その前で脅えているように縮こまる志貴の姿をシエルが確認
するやいなや、その片方の秋葉がシエルを厳しく見据える。
シエルはその差すような視線の先にいながらも、平然と二人にお辞儀をして
見せる。こういう物怖じしないところは、琥珀や翡翠以上に使用人慣れしてい
る様に見えるシエルであった。
その素振りに、かちんときた秋葉の口は勝手に動き出す。
「シエル、貴女――一緒に飲みなさい!」
「はぁ……秋葉様。お酒のご用意ですか?ただいまキッチンに……」
「秋葉、落ち着いて……」
もう、こうなっては志貴には転がりだした事態を止めることは出来ない。
戸惑うばかりの志貴の前に、ウィスキーのボトルとロックアイス、それにショッ
トグラスが回される。シエルの作ったダブルの水割りを秋葉に握らされ、逃げ
場を失った志貴はこの場から自分を救ってくれる誰かの姿を探す。
だが、そんな都合のいい存在がいつもいるわけでは無い。頼みの綱のシエル
も楽しそうに酒宴の準備に耽っている。そうか、シエル先輩って辛党だったん
だ――そんな埒もない考えを混乱状態の志貴はぼんやり弄んでいた。
孤立無援のまま、志貴は目の前に突きつけられた秋葉のグラスを前にたじろ
ぐ。そこには割っていないストレートのウィスキーが注がれている。
「兄さん、今日は無礼講です。私がそう決めました!」
不敵に宣告すると、秋葉は志貴のグラスに自分のグラスを打ち合わせ、その
ままくーっ、とグラスを干す。その傍らでは、メイド服姿のシエルもグラスを
傾ける。
――ままよ!志貴の心はそう叫ぶ。
志貴はグラスに唇を当て、そのまま灼けるようなアルコールを喉の奥へと流
し込む。そのまま、熱いアルコールの感覚が咽頭、食道から胃へと流れ込むの
が分かった。
こんな飲み方していたら体が保たない、と思う暇もなく――
「良い飲みっぷりですね、兄さん」
「ささ、遠野くん、はいこれ」
志貴の手から空のグラスが取り上げられ、次のなみなみと注がれた水割りの
グラスが手渡される。指先に感じるロックアイス入りのグラスはひやりと冷た
く、露が指先を濡らす。この早業に呆然としている中で、シエルも秋葉もくぃっ、
と一杯目を干していた。
「先輩!秋葉!こんな飲み方していたら身体に……」
「大丈夫です、遠野くん。これぐらいで死ぬほど温い鍛え方はしていません」
そう言うと、シエルも美味そうにくーっ、とアンバーブラウンの液体を喉に
流し込んでいた。すっかりシエルはこの場の空気にうち解けてしまい、秋葉を
前にしても志貴のことを「遠野くん」と呼んでいる。
いつもはそれを気にする秋葉も、黙ってこくこくとストレートでウィスキー
を飲んでいた。酒を干す秋葉の顔はなんとなくやるせなさを抱えているかのよ
うだったが、アルコールが入って行くにつれ、頬がわずかに紅潮し、奇妙な笑
いが浮かんでくる。
シエルも、表情こそ全く変わらないがかなりの酒が入っていることは確かだっ
た。流石に昼食にワインを飲み、ビールを水という欧州生まれ、酒への耐性の高
さは頭抜けている。
――ウワバミとザルに囲まれた。そう志貴が悟った頃にはすでに遅かった。
「兄さん、手が止まっています!」
「そうですよ、私たちの杯が干せないんですかー」
そんな、お前らつまみも無しにそんなに気合いを入れて飲むな!と志貴は怒
りたかったが、アルコールより前に何かに出来上がっている二人を前にひどく
無力であることを悟る。
取りあえずグラスを傾けて二人の攻撃から避けようとする志貴ではあったが、
たとえ酔い潰されたとしても、せめてこの秋葉の狂乱の原因だけは聞いておき
たかった。
「あ、秋葉……どうしてお前、そんなに出来上がってる?」
秋葉は空のグラスを氷でカラン、と鳴らす。秋葉の目はグラスと氷に映る自
分の姿をしばらく眺めていたようだったが、キッと志貴を見つめると剣呑な口
調でこう言う。
「兄さんのせいです」
「へ?」
「……兄さん、兄さんが飲んでくれないと、私も喋りません」
アルコールによって酔っぱらっているのか、それともアルコールのせいで理
性が飛んで地が出たのか、志貴の前でいつもは出来ない駄々をこねてみせる秋
葉。そして、その秋葉に為す術がない志貴と――
「そうですね、遠野くんは罪作りな殿方ですから。秋葉さんも大変なんですねー」
まるで他人事のように楽しそうなシエル。
「あんたがそんなことを言うなっ!シエルゥー!」
「あははは、秋葉さん、飲みが足りませんよー」
もしかして、俺は明日の日を拝めるだろうか?そう志貴は我と我が身を不安
に思い、グラスに氷を放り込むシエルの姿に目を移したその瞬間――
ぐらり、と志貴の視界がブレる。
何故か、ひどく真剣な顔で秋葉を見つめるシエルの顔が視界の中を泳いでいく。
シエルは秋葉にグラスを渡すが、その表情の硬さと仕草がおかしい。まるで
何かの術を掛けているような―――
――どうしたの、先輩、そんな顔で。
そう口に出せないまま、志貴の首は頭の重さを支えきれずに、横に倒れる。
視界は転倒し、ごつん、と頭が鳴ったかと思うとそのまま暗転し――
(To Be Continued....)
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