無言の対峙がしばらく続いた後、口を開いたのはシエルの方であった。

「……貴女が来ることは、計算外でした。遠野君が来ることは考えていました
けども……もっとも、本当に来て欲しかったのは琥珀さんです。
昼間に暗示をかけたのに……無駄になりました」
「琥珀の名は口にしないでもらえるかしら」

 苛立たしげな秋葉の声が、結界の中の重く沈滞した空気を不快に揺する。険
のある秋葉の声は大の男すら萎縮させるようなとげとげしさがあるが、目の前
のシエルには――眼差しを隠すように顎を引き、前髪の蔭が顔に差す彼女には
堪えている風はない。

「……今は、七夜と呼んでいるんですね。七夜……遠野……この一ヶ月という
もの、ずっと調べていました。
 私がそもそもこの町に来た目的……忌まわしい無限転生者ミハイル・ロア・
バルダムヨォンが、何故私やあの鏖殺の真祖アルクェイドの手に掛からずに消
滅したのかを」

 ほとんど感情の起伏がない声で言葉を連ねるシエルを前に、秋葉が軽く眉を
しかめる。ミハイル・ロア・バルダムヨォンとアルクェイドという聞き覚えの
ない名前――だが、彼女の話からはアルクェイドという存在はともかく、ロア
を呼ばれた存在が何を意味しているのが分かる。

 ――シキ。遠野シキ。八年前に遠野寄りに反転し、志貴を殺しそのまま帰っ
てこなかった吸血鬼の「兄」。琥珀の計略に駆られて殺戮を犯し、その琥珀に
裏切られ、自分を傷つけ、志貴に葬られた悪夢の主。
 やはり、この女は過去を掘り起こしに来た――秋葉の疑念は確信と化した。

 知らず、秋葉の目つきが険悪になる。

「確かにロアの滅びは喜ばしいことです。私は望まぬ無限の復活から回復され、
アルクウェイドは積年の宿業から解放されました。でも、素直に喜べない謎が
残りました……
 誰が、どうやって、何故ロアを滅ぼしたのか?
 なぜロアを私やアルクウェイドが探し出し切れなかったのか?」

 そこで、シエルの顔が上がる。冷たく硬い蒼い瞳が秋葉を射る。
 秋葉には言葉がない。だた、軽く右足を引き半身に身構える。

「遠野家……三つの肉体を巡る二つの魂。『共融』の能力者が複雑な魂の共有
関係を構成し、そこにロアの魂が迷い込んでいた。
 順当なロアの転生を想定していた私やアルクェイドには想定外の事態です。
 それに、転生したロアは顕現しなかった……その代わりに遠野シキ、という
吸血鬼が現れた。これでは後手後手に回るばかりで、探しきれなかったのは道
理です」
「貴女……要らない詮索をしたものね」

 秋葉の警戒を交えた皮肉をシエルは聞いているかどうかは怪しいものであっ
た。顔色は全く変わらず、ただ冷たい瞳で紅い秋葉の姿を捕らえている。シエ
ルには、秋葉の発する殺気にも似た隠し切れぬ赤気を感じている様子がわずか
にある。
 一拍するまでもないわずかな沈黙の後、シエルが言葉を続ける。
 
「ええ、詮索かも知れません。でも、勘繰りといわれても詮索はしてみるもの
です。遠野という異形の一族の中の事は外の人間には何かと分かりにくい物で
したが……
 ですが遠野家の先代によって、かつて巫淨と呼ばれた家柄から引き取られた
二人の少女の事に至って、ようやく事のあらましが掴めました」
「………………ッ!」

 秋葉の歯がギリ、と鳴る。我知らず秋葉はシエルの言葉を前に奥歯を噛み締
め、黒い法衣が宵闇に染み込みそうな彼女を睨んでいた。まだ、『略奪』を発
する赤気は発していないものの、半身に身構え視線で睨み殺すかのような秋葉
には鬼気迫る物がある。

 シエルはそんな秋葉を前にしても、相変わらず両手を投げ出した無防備と言
えそうな態度を崩していない。それがむしろ秋葉には――不遜に感じられた。

「貴女……琥珀のことを、嗅ぎつけたのね」
「……そんな貴女の言い方は好きではありませんが、構いません。
 琥珀と言う名の少女が、ロア……いや、シキという吸血鬼を駆り立てていた
という事実は変わりませんから。
 彼女が何を考えていたのかは分かりません……でも、吸血鬼を、人の範を越
えたアンチクリスト、反自然の矛盾と結託する咎人を、何というか知っていま
すか?」

 シエルの言葉は問いのようであるが、秋葉に答える余地を残していない。
 秋葉の口が何かの言葉を紡ぎ出す前に、シエルの重々しい言葉が唇から漏れ
る。その瞬間、彼女の眦は結して釣り上がり、対峙の間には無機質にも感じら
れた瞳の中に瞋恚の炎が宿る。

「それは、異端者と言います。
 異端者は討たれなければなりません」

           ☆              ☆

「姉さん……どうしたの?」

 厨房の支度台の上に晩餐の食器を並べていた翡翠は、いつもの様子ではない
七夜の仕草に気が付いた。
 琥珀としての記憶を失っていた七夜ではあったが、料理や家事などの記憶は
彼女には残されたままであった。翡翠の目からはかつての琥珀と同じ手捌きで
料理を仕上げていく七夜を見守っていたが、晩餐のメインディッシュのソース
を作る七夜の手が――不意に止まったのが目に付いた。

 七夜の琥珀色の瞳が、フライパンの上を離れキッチンの壁の継ぎ目を呆然と
凝視している。屈託のない笑いを浮かべていた彼女の表情は、突然硬くなる。

「姉さん?七夜姉さん!」
「……違います、わたし、琥珀なんかじゃありません……そんな娘の事は知り
ません……私は七夜です……」

 虚ろに呟く七夜の姿に、翡翠は戦慄を覚える。いままで七夜がこんな事を口
にする事は一度もなかったし、一度も起こって欲しくなかった。翡翠は七夜に
駆け寄り、硬直している彼女の身体を抱き寄せる。

「姉さん!姉さん!おねがいしっかりしてっ!」
「違うのっ、私は……私は琥珀なんかじゃないっ!琥珀なんかじゃ……っ!」

 はぁはぁと荒い息を付きながら、七夜は泣き咽ぶように叫ぶ
 翡翠と七夜の姉妹の叫びは、壁を越えて居間にまんじりともせず佇んでいた
志貴の耳にも入ったと見え、扉を蹴り開けるようにして志貴が厨房の中に躍り
込んでくる。

「七夜!翡翠!どうした!」
「姉さんが、姉さんが突然……志貴さま!」

 志貴の視界の中で、七夜が弱々しい手で翡翠の肩にすがりつき、胸元に顔を
押しつけて震えている。他人に侵しがたい決意を宿して離れていった秋葉とい
い、突如恐慌状態に陥った七夜といい、いつもにもなくあわてるばかりの翡翠
といい、あの凶事の日々が突然還り来たかのような出来事を前に、志貴は地団
駄を踏みたい心地であった。

 七夜はまるで繰り言のように、翡翠の胸元に何かを呟き続ける。漏れる言葉
は志貴にはすべては聞き取れないが、琥珀という言葉が繰り返し耳に入る。翡
翠はそっと腕を七夜の背中に回して抱きしめた。

「大丈夫、姉さん……姉さんは七夜よ……琥珀なんて言う名前は知らないから……」
「でも……でも……呼ばれているの……私が琥珀ってだって……
 早く、早く琥珀はここに来いって……行きたくない、行きたくないの……あ
そこには、あの樹の下には……」

 七夜の言葉には脈絡が無く、まるで熱病に浮かされた患者の取り留めのない
譫言のようでもあった。だが、断片的な言葉が僅かづつ重なっていくにつれ、
志貴の中では徐々に、何かが分かり始めていた。

 ――これは、普通ではない。遠野に曰わくの有る何かが絡んでいる。

 七夜を――かつての琥珀を誰かが超常的、呪的な方法で呼び出そうとしてい
る。そして、それに反応したのは七夜であり、遠野としての才質に目覚めた秋
葉であった。そうして秋葉は志貴と翡翠に七夜を託し、一人その場に赴こうと
している。
 七夜がそれに遅れて反応し、琥珀というモノと七夜という今の人格がせめぎ
合って恐慌状態に陥っている。翡翠と志貴はこの状況に、右往左往するだけだ。

 志貴の中をざらり、とした感情が走り抜ける。
 人はそれを怒りというかも知れない。だが、死線をくぐり死を眺め危うい命
の刃の上で踊った今の志貴には、それを客体的なものとして扱う感覚があった。
志貴の頭は今の状況をあくまで冷静に判断し続ける

 誰かが、誰かが遠野の家に不吉な影を落としている。
 誰か――それは分からない。ただ、この恐慌状態の七夜を残しては動けない。

「………………ッ!」

〈 To Be Continued..."Odi et amo" part3 〉