「おい」
「あー? 何だよ、突然」
「またやったぞ、今度は客間だ」
「……また……か」
「ああ、これで何回目になる?」
「俺に聞くなよ。いちいち数えるかっての」
「それもそうか……まあ、元はお前が連れてきたんだ」
「それは違うっ! 向こうが勝手に押しかけているんだろーが!」
「責任はお前にあるから、何とかしろ」
「流すなよ!」
「いいな。あたしは、これから三日ほど家を空ける。お前が何とかするんだぞ」
「だから、人の話を……」
「返事は?」
「………………了解」



『ありひこくんとななこちゃん −よくある日常の一コマ− 』

                           10=8 01



 地響きにも似た激しい音を立てて階段を駆け上がる。
 テンポよく、そして感情を表した足音は、一戸建ての家を揺らしていた。普
段は耳障りな床の音も、その重低音に掻き消されてしまっている。
 友人の屋敷――あそこは家と呼称できない――と違って狭いので目的地まで
は何の苦労も無く辿りつく。ここがアイツの屋敷だったら倍近い時間がかかっ
ていただろう。
 自室のドアをすぐに開けようとはしなかった。とりあえずは一息ついて呼吸
を整える。
 呼吸――吐息。
 よしっ!
 自分の中で準備が完了したことを確認すると、俺は勢いよくドアを開けた。
 再び呼吸。
 そして吐き出すように声を乗せる。

「おらぁっ! ななこっ、テメエまたやりやがったなぁ!!」
「な、なななな、何ですかぁぁ、有彦さんっ!?」
「しらばっくれるんじゃねぇっ!」

 顔に脂汗を垂らして、部屋の隅で怯えるように丸まっている。あまりにも解
りやすいリアクションの“それ”に俺は詰め寄り、下からすくい上げる様な拳
を連続して撃ち込む。

「有有有有有有……(アリアリアリアリアリアリ)」
「ひやぁぁぁ、痛い、痛いですってばっ! 酷いですよっ、有彦さん!」

 泣きながら訴えてくるが、そう言いながらもしっかりと俺の拳を弾いていや
がる。結果的に打点がズレたために軽く小突く形になってしまった。
 最後に渾身の力を込めた天の鉄槌のごとき一撃(ゲンコツとも言う)で締め
る。
 そして一言。

「有ーヴェデルチ(さよならだ)」

 うーん、決まった。
 俺が台詞を決めた余韻に浸っているところに茶々が入る。

「その台詞、恥ずかしくないですか?」
「う、うるせぇ! 人の決め台詞に文句言うな!」
「文句じゃないですけどね」

 そいつが溜息一つして肩を落とした。その仕草が「やれやれ」とでも言いた
そうで癪に障る。
 随分と余裕だな、コイツ。
 もう落ち着いたのか、殴られた頭を馬のような腕――この場合は前脚か?―
―でさすりながら、恨めしそうにこちらに目をやっている。ブツブツと呟く声
からは「暴力を振るうなんて人間じゃありません」だのとほざいている。
 人外風情がよく言ったもんだ。

 こいつの名前はななこ。
 元々はセブンなどと特撮めいた名前だったようだが、その呼称がしっくりこ
ないので、俺は皮肉を込めてななこと呼んでいる。その皮肉もコイツには意味
はなかったが。
 以前にななこは家に勝手に住み着いたことがあり、それ以来に付き合いだ。
 彼女にはマスターと呼ばれる飼主が存在しているが、その処遇の悪さに耐え
かねて逃げ出すことがしばしばあった。
 どういう因果か知らないが、厄介なことにななこは俺に懐いているらしい。
体よく俺を利用しているとも取れるが、結局はなし崩し的にコイツを家に入れ
る俺も俺だ。
 何度目かの逃亡を図って、いつものごとく乾家へとやって来る。
 同じ場所に逃げ込んでいる時点で逃亡計画に問題ありだと思う。学習能力と
いうものが無いのかコイツは。
 それでもマスターとやらは、ななこが逃げ出してから短くても三日程は猶予
を与えているようだった。あいつの気持ちを考えてのことなのだろうか。飼主
には飼主なりの考え方というものがあるのかもしれない。
 今日でななこが来て一週間になった。

 姉の言ったことを思い出す。
 俺がアイツを何とかしなくてはならないわけだ。まったく、俺の責任ではな
く殆どがアイツの責任だというのに。
 姉貴は「警察沙汰は起こすな」とありがたいお言葉と共に外出していってし
まった。さっきの話では三日間は家を空けるということだ。もっとも、この期
限をオーバーすることもしばしばあるが。
 ふん。
 まあ、躾をするには丁度いいか。
 俺が何とかするしかないようだし。

 ――ああ、言いそびれていた。
 俺はこの家唯一の男手にして、ななこを拾っちまった不幸のオトコノコ。で
もって、ついでに遠野志貴の友人(ダチ)でもある。
 名前は乾有彦。
 今、俺は無視できない問題に直面している。


「知らないですー! 何も知りませーん!!」
「………この味はウソをついている味だ」

 頬の汗を舐めて答えてやる。
 いや、実際に味なんてしょっぱいだけだったが。

 ななこの耳をひっぱり、階段を下りてゆく。目指す場所は客間。
 いたいですー、などと叫んでいるななこは完全に無視した。
 作った料理をテレビを見ながら食うのにここは利用されている。そもそも、
自分と姉貴の客など客間に案内するような客ではない。自分の場合は遠野がそ
の最たる例だ。あいつを客間に上げる必要性は皆無だ、俺の部屋に上げれば済
むことなのだから。
 そういう訳で、普段は客間などその名の通りの理由が成されていない。
 たとえそういう扱いでも、これはないだろう。
 俺はななこの頭を掴み、ソファーの角に頭を近づけさせる。

「おら! これが誰の何かくらいはよぉぉぉっく解っているんだろ!?」
「やめてやめてやめて……そこは色々とカオスな状態になっていて、ちょっと
諸々の事情によって、ああ! 押し付けないで下さい!! いやいやいや!!」
「ほら見ろ、テメエ! やっぱ何をやったのか自覚してんじゃねえか!」

 鼻を鳴らして、開放してやる。縛を解かれたななこは瞳に涙すら浮かべて抗
議の視線を向けてくる。だが本格的な抗議の声が無いということは、自分にも
非があることを認めているということだ。
 ななこの顔を押し付けたソファーの一角に目をやる。
 そこにはまだ新しい染みが一つ。それはうっかり醤油を垂らしてしまった程
度の軽いものではない、口をつけていない飲み物をぶちまけてしまったような
大きな染みだ。
 染みは完全に乾ききっていないらしく、まだ少し湿っている。もっとも、こ
んなもんを触る気などまったく無い。
 薬品を嗅ぐ動作で染みの臭いを嗅いだ。扇ぐ手の平から、その染みに残され
た臭いが運ばれる。
 ツンとした刺激臭。これは嗅いだことのある臭いだ。
 そしてその臭いは、この染みが飲み物を零したものではないという事を物語
っている。

 それは尿の臭いだ。

 ソファーで尿を漏らすような奴は乾家にはいない。というか、相応の年月を
重ねた人間ならまずしない。
 なら、誰が?
 答えは一つ。人間はそんなことはしない。なら動物はどうだろう。ここの家
にはセイレイとか自称している駄馬が一頭いる。家にいるのは俺と姉貴と駄馬
ことななこだけだ。消去法で考えても、そこから導き出される答えは一つ。
 ――謎は全て解けた。

 あなたを犯人です……って、こりゃ俺じゃねえか。

 つまりは、こういうことだ。

「ななこ! あれほどトイレの場所を教えただろーが!」
「ええ、教えてもらいました。でもこの腕ですよ。服が脱げるわけ無いじゃな
いですか」
「じゃー、どうやってこのソファーにやりやがった!?」
「ええ、四つんばいになって片足を上げて、こう……器用に腕を使ってですね」

 実際にやり始めるななこを制止する。思考することを拒絶した頭が前後左右
に動いて一回転。

「いいから……んな格好すんな、バカ! ここで出来るなら、なんで便所で出
来ない!?」
「だって洋式じゃないですかー、角度的に頑張っても無理ですよー」
「だ……だからって、ここでしていい理由にはならんだろーが! 大馬鹿馬が
ぁぁぁ!!」
「っ! 有彦さん。そんなに大声出すと近所迷惑ですよー」
「……っ!!」

 誰のせいだと思っているコノヤロウ、と引きつった笑顔を見せ、容赦なくな
なこを叩き倒した。床に叩き伏せられたななこは、ひどいですー、と目を回す。
 ソファーのカバーを外して、用意した洗濯籠へ放る。余計な洗濯物が増えて
しまったことに舌打ち。

「大体なぁ、何で漏らすようになったんだ? 前来たときはそんなことなかっ
ただろうが」

 前述したとおり、ななこは逃げ出しては家にやってくる。以前にやってきた
のは一ヶ月ほど前だったか、その時にはこういう事態は起こっていない。アイ
ツが尿を垂らすようになったのは住み着いてからここ一週間の間でだ。
 最初はよりにもよって俺の布団でやりやがった。
 布団を片付けずに学校へ行ったのが悪かったらしい、恰好の標的となてしま
ったわけだ。アイツは俺に罪を被せようとしたようで、帰ってきたら「やれや
れ、やってしまいましたね」などとほざいていた。
 問答無用で張り倒したが。
 ともかく、そんな事があってからはまるで人間様のように尿意を感じている
らしい。幽霊の分際で厄介な馬だ。

「漏らすようになった理由……ですか。そうですねー。考えられる理由として
は、また繋がりが強くなったからですかねー」
「はぁ? 俺の血はもう拭っただろーが」
「もうっ、そこのくだりは前にも、前々回にも説明したじゃないですかー。ま
あ、有彦さんの頭じゃあ憶えていることは期待していませ―――いたいいたい
いたいですぅぅ!!」

 完全に綺麗な状態で極まったヘッドロックを開放し「続けろ」と顎の動きで
促す。
 ななこはまだ痛むのか、頭をさすりながら涙目で話を続ける。

「一度繋がったことで、有彦さんとわたしの霊的な繋がりが生じたってことで
す。元々は赤の他人だったのに、あの日に血の繋がりが生じた為にわたしの精
神が記憶――記録、まあどっちでもいいや、とにかくそうなったわけです」
「あー、待て待て。そこら辺は観念的すぎる。率直に言え」
「はぁ……もっと簡潔にですか?」
「簡潔と大雑把を一括りにするなよな」

 一応、念を押してみる。う、とななこが唸ったように見えたのは気のせいだ
ろう。

「つまり……一度見えちゃったり触れちゃったりできたんだから、また見れた
り触れたり出来るようになっちゃったということです。しかも血が無くても」
「あー、成る程。そりゃー解りやすい」
「―――! こめかみをグリグリしながら言わないでくださぃぃぃ!!」
「うっせえ! お前、俺を馬鹿にしたように説明してんだろ!」
「あわわわ、さすがにバレましたか……いたたたたいいいいい!!」

 まあ、細かい理屈はどうだっていい、それは今回のテーマには関係ないしな。

「テーマって何がですか……?」
「お前には関係ない。いや、関係あるけど、関係ない」
「?」
「あー、もう! とにかく、俺はお前が突然漏らすようになった理由を聞きた
いんだよ!」
「はぁ……そんなことを聞きたいなんて、有彦さん……特殊な趣味の人ですねー」
「違うわっ、ボケ!! 聞かなきゃ対処のしようがないだろーが!」
「聞いても対処しようがないと思いますが」
「うっせえ! 聞くか、聞かないかで変わるんだよ! もう! とっとと話せ!!」

 叫ぶ俺に大きな溜息を吐くななこ。何を落ち着き払っていやがるんだこの駄
馬は。どうもコイツは自分の立場を理解してないらしい。

「繋がりが強くなったので、食べるだけでなく、より人としての効力が強くな
ったって感じですかねー」
「はぁ? 幽霊が人として効力を持つだぁ?」
「精霊です!」
「ユーレイもセーレイも同じだって」
「違いますって! いいですか、そもそも精霊というのは……」
「あー、長くなるなら端折れ」
「……酷い。ま、まあとにかく、有彦さん用にレベルを落とすとですね。食べ
ているのに尿意を感じないのは変じゃないですか」
「俺レベルってなぁ……待てよ。お前、もしやでっかい方も……」
「いえ。そこまでは顕現していないようです」
「時期にそうなる可能性は……」
「なきにしもあらず、ですねー」

 なんてこった。
 ただでさえこいつの尿に困り果てている日々だってのに、これに加えてさら
に凶悪なヤツが控えているとは。
 これは即刻コイツにトイレを教えないと。
 って、今日びのペットでもトイレの場所憶えるぞ。

「本格的にペット用のを買うしか……」
「有彦さん! わたしはそこらの動物とは違うんですよ!」
「じゃあ、外でしろ」
「恥ずかしいじゃないですかー」
「……お前……なら、どーしろと」
「現状を容認しては?」
「姉貴に何とかしろと言われている」
「まあ、郷に入れば郷に従え、そう言うじゃないですか」

 使い方を思いっきり間違えているぞ、それは。こちらが額を押さえて座り込
むのを見て、何を勘違いしたのかななこが、

「まあまあ。明日がありますー」

 などと言ってきやがる。どの口がそんなことをほざきやがりますか?
 容赦抜きに殴り飛ばした。

「いいか! こーなったら、多少強引にでも矯正すっからな!」

 それだけを言い放ち俺は部屋を後にする。
 こーなったら本気で躾けるしかない。
 むしろ、特訓や修行と言った方がしっくりくるかもしれないな。

 兎にも角にも、俺はそう決めた。
 決めたったら決めた。
                                      《つづく》