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それは夢か現か。
夢と言われれば夢であり。
現実といわれれば現実である。
どちらが夢で、どちらが現実か。
二重に交錯したような不可思議。
これは――そんな話。
『悪意無きセンジョウ』
10=8 01
頬をなでる柔らかい感触で目覚めた。
耳を澄ませばけたたましく蝉が鳴いている。残暑を惜しむかのような金切り
音に、自分を支配していた睡魔が無理矢理に霧散。
「―――――っ」
どことなく不機嫌な様子で寝返りを打つ気配。
だが、それも緩やかに収束してゆく。この離れの和室は風通しが良く、九月
初旬の暑さも気にならないほどに心地よい空気を運んでくれる。
大きく伸び。
全身を使い大きく自己を主張するようなそれは、この空間は自分の物だ、と
主張するようなふてぶてしさを含んでいるように思えた。
まるで猫のような。
離れを出て天を仰ぐ。
樹冠に遮られた空。その間から僅かに漏れる陽光。
そこから志貴は現時刻を予想――太陽は天高く頭上に近い位置にある――お
そらくは昼時だろう。
そういえば小腹が空いたな。
食料の補給を求める胃袋と本能に従うように歩を早めた。
ほどなくして屋敷が見えてくる、だが様子がどこかおかしい。
何か苛立ったような空気がまとわりつく、同時に同じ空気の声が鋭く響いた。
「まったく! 兄さんはどこをほっつき歩いているんですか!」
「まあまあ、秋葉さま。ひょっとしたら外食かもしれませんし」
「にしても連絡の一つくらいは常識でしょう! 翡翠、兄さんから何か聞いて
いないの?」
鋭い怒気の主――秋葉に訊かれ翡翠が答える。
翡翠は秋葉の押しつぶされそうなプレッシャーを前にしながらも、平然とし
た様子だ。
「今朝は特に何も聞いていません。まだ屋敷の中にいるか、わたしたちに何も
言わずに外に出たのではないでしょうか?」
「確かに、どっちもありえる話ね。どうせ昼寝でもしているに決まってます」
む、なかなか鋭い。
秋葉のカンの良さに内心で舌を巻く。
どうやら昼食時になっても志貴がやってこないことに酷くご立腹らしい。だ
が、遅れることは日常茶飯事とまではいかないにしても、今まで何度かあった
が今日ほど怒っている彼女を見たことがない。
まあ、こうやって姿を現せば問題ないだろう。
秋葉の小言の猛打に覚悟しながら玄関方面へと向かった。
そして声をかける。
「にゃあ」
………………………………にゃあ?
「あら、野良猫だわ。屋敷に入ってくるなんて、不届きね」
ふん、と息を吐き、こちらを見下ろしてくる秋葉。
琥珀さんは「まあ、可愛い」などと言いながらこちらを抱き上げる。
そんな彼女のそばに翡翠が寄ってきて、興味津々といった風にこちらを覗き
込む。
ナニカオカシクナイデスカ?
「にゃ、にゃにゃー(こ、琥珀さんくすぐったい)」
「あら、この子猫……男の子ですね♪」
何故か嬉しそうに言ってくる琥珀さん。
こちらを脇から高めに持ち上げてぶら下げるようにする。
というか、そう、まじまじと局部見られると恥ずかしいんですけど。
ああっ! 翡翠までそんなに凝視して……
――――ふと。
「……どことなく、兄さんに似てません?」
秋葉の、その何気ない一言が悪寒を呼んだ。
何でだろう。
彼女はただただ普通に発言しただけだ。
それなのに、その言葉がよくないことの引き金であるかのように思えてしま
う。
見れば琥珀さんと翡翠が、緩めていた表情を引き締めていた。
何故にそんな真剣そうな顔に?
「そういえば……そうですね」
「ええ、姉さん。この毛並みも似ています」
何気ない。
本当に何気ない姉妹の会話なのに。
何故にここまで危機感を感じてしまうのだろう。
たぶん遠野志貴本人はそれを理解しているのだろう、魂のレベルで。しかし
理性が「そんなはずない」と言っているのだ。無駄なことを。この場合に常識
など何の役に立つのか。
拙い。
本気で拙い。
「琥珀……わたしにも、その猫抱かせてくれない?」
「そうですね……秋葉様」
「姉さん、逃げないようにしっかりと……」
「うん、大丈夫……ふふ」
何か。
いつぞやのデジャビュが。
アレは――確か――夢の――中の――
自然と、身体が動く。
ああ。
これが本能か。
「に……にぎゃああぁぁっ!!」
行動は迅速だった。
思考よりも早く身体を動かし、相手の先、さらに先を読み切って追撃を回避
する。その反射神経は人間のそれを超えた野生の成せるものなのか。
たぶん頭の中で種の割れたり、額に鋭い閃光が走るような演出が起こってい
るだろう。具体的には宇宙世紀みたいなヤツが。
三人の声が遠くなっていくのを確認して、ようやく身体を這い出す。
隠れ場所に選んだのは中庭の庭園だ。ここでは琥珀さんが栽培している世に
も怪しい植物で満ち満ちている。そこの茂みに身を潜めて、なんとか彼女らを
やりすごせたようだ。
「にゃ……(しかし)」
改めて自分の姿を見回す。
朝に用意された服など着ているはずもなく、黒い獣の毛。
腕――むしろ前足と呼んだ方がしっくりくる。
足――靴ではなく素足、肉球とかついてますけど。
あ――今、尻尾が見えた。
「………にゃぁ」
答えは一つしかない。
何故?
という疑問は意味を成さない。ここでは結果のみが提示されていて、過程の
部分はすっぽりと抜け落ちてしまっているのだから。
どうやら。
遠野志貴は猫になってしまったらしい。
不意に冷たい感覚が小さな身体を包み込む。
しまった、見つかった?
そう思ったときには、もう遅い。すでに脇をがっちりと押さえられていて抱
きかかえられてしまっている。下手に暴れると余計に力を入れられて、逆に脱
出が困難になってしまう。
それでも、なんとか頭を動かしてその主を確認する。
秋葉だったら完全にアウトだ。あいつは動物の中でも猫を快く思っていない。
それはひとえにアルクェイドが猫を連想させるからだろう。
琥珀さんでも危ない。普通に接していればこれといった問題はないが、何か
精神的な敗北感を感じてしまう事態になりそうだ。弱みを握られているような、
そんな感覚。
とすれば翡翠が一番安全だろう。いや―――そうとも言えないかもしれない。
確かに常識的に考えれば安全だろうが、先程の翡翠の表情はどこか危険なもの
を含んでいるように思えた。普段の抑圧された感情を解き放つような――噴火
前の火山のような鳴動に例えれば丁度いいだろう。
そこまで思考して愕然とする。
ということは、誰が捕まえたにしても危険なことに変わりはないじゃないか。
DEAD・END.
そんな不吉な文字が脳内を次々と埋め尽くしてゆく。
「にゃ、にゃにゃ!? にゃーにゃ!?(授業!? 授業の時間ですか!?)」
だが。
こちらを抱きかかえた主は彼女たちとは異なる、また別の人物だった。
可憐な人形を思わせる、まだ幼い顔立ち。紅い瞳が揺れて穏やかな気配を纏
う。さらりとした長髪は黒いリボンをアクセントにしていて、日差しの中で美
しく映える。細い腕がしっかりと猫化したこちらを抱き上げて、その胸に収め
ていた。
レン。
淫夢の使い魔であり、現在は自分こと遠野志貴と契約している。
しき。
小さな口が、そっと名を紡ぐ。
やわらかい風に撫でられたような心地よさ。
レンは自分が遠野志貴だということに気づいているようだ。
どうしようかと思案していると、レンが抱きかかえたこちらを下ろして茂み
の中へと押しやる。レンの意図が解らず、首をかしげた、そんなこちらを意に
介した様子もなく、レンはこちらを遮るように移動。
すると聞きなれた声が聞こえてきた。
「あら? レンちゃんじゃないですか」
この声は琥珀さんだ、心なしか息が上がっているようにも思える。
「あの……さっき、この辺りで志貴様に似た猫を見ませんでした?」
――――――!!
まだ、諦めてなかったのか。
今ここで見つかったら逃げようがない。この庭園は完璧に琥珀さんのテリト
リーだ、怪しい罠の一つや二つはあって然るべきであろう。そして秋葉はそん
な罠を叱るべきだと思う、俺は。
いつでも逃げ出せるように全身の筋肉を収縮。足を曲げて、弓を引き絞るよ
うに力を込める。穏やかだった庭園の空気が、一転してピリピリと帯電するよ
うな緊張感に包まれた。
「知らないんですか?」
「…………(こくん)」
頷く気配。
張り詰めた筋肉が一気に力を失ってゆく。レンはこちらを匿ってくれるらし
い。
琥珀さんは疑うでもなくその場を後にした。ちらりと伺うと、その手には投
網やら鎖鎌やら危険なエモノの姿が―――
深く思考することを止めて、とりあえず安堵の溜息を零した。
《つづく》
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