望みと恐れ

                   A・クローリー

 書斎から出てみれば、既に太陽が傾いていた。
「しまった…」
 迂闊。
 廊下の窓から外を眺めたシオンは、ちょうど帰ってきた志貴が翡翠に出迎え
られるのを見つけて唇を噛む。
「…………っ」
 秋葉から書斎にある遠野家に関する資料の閲覧を許可してもらい、その作業
に没頭していたらこの有様だ。
 この時間帯に志貴が帰宅することは解っていたと言うのに……。
「それだけ熱中していたと言うことか…」
 人と交わり遠野と呼ばれる混血の一族を生み出したのは鬼種という超越種で
あるという。そのルーツは真祖に極めて近いと推測され、シオンの研究にとっ
て彼らと血を混ぜた一族の記録は重要な資料となり得るだろう。
 そう思ったのだが、最近の記録はともかく古いものは散逸してしまっていて、
読めるような状態にするのさえ一苦労と言うものが多かった。
 大変ではあるが、ここ三年間アトラス院の追っ手から逃げ回っていたシオン
にとって、長時間かけて大量の資料と格闘する作業は逆に平穏を感じさせ、む
しろ楽しかった。
(感傷だ。……でも悪い気はしない)
 だが、だからと言ってこの失策は―――
(注意力が散漫になっている……。良くない兆候かもしれない)
 と。
 窓の外に動きがあった。見れば、窓際に立つシオンを見つけた志貴が呑気な
顔で手など振っている。
 あの地獄のような戦いの数々を潜り抜けたとは到底思えない、見るものを無
条件に安心させるような笑顔。
「あ―――」
 見とれた。
 同時に。
「―――う、あ……っ―――」
 猛烈な喉の渇きとたまらない犬歯の疼き。
 奥歯が砕けそうなほどに歯を食いしばり、なんとかいつもどおりの表情を保
つ。
 辛うじて志貴に頷いて見せると逃げるように踵を返して窓から離れた。
 背中を叩きつけるようにして壁にもたれ、自分の身体をかき抱く。
 脚から力が抜け、ずるずると床に崩れ落ちた。
「………は、あ―――」
 息が荒い。
この程度の自己制御さえできなくてなにが錬金術師か。
そう思うが、呼吸と動悸の荒れは収まらない。
(今のは危なかった……)
 もう少しで窓を打ち破って外に飛び出し、志貴に襲い掛かるところだった。
 前もって心構えをしておけば大丈夫だが、あのように突然こちらの好意を喚
起するような行動に出られると抑えきれなくなる恐れがある。
 ここ最近、シオンの吸血衝動は危険なまでに高まっていた。
 志貴の血が欲しくてたまらなくなる。
 もしそうなってしまえば志貴と戦うことになるだろうが、死徒と化した自分
では彼に勝てるわけがない。
 あの時勝てたのは、自分が彼の殺害衝動を呼び起こすほど外れていなかった
からだ。
 真祖の姫君アルクェイド・ブリュンスタッド、死徒27祖NO.10ネロ・
カオス、非現実的なまでのポテンシャルを持っていた死徒弓塚さつき。
 彼らのように成す術もなく解体される。
「…………」
 だが、そうなれば―――
(弓塚さつき―――彼女は、志貴に殺されることで永遠に彼のものになった)
 独占ではなく、被独占。
 相手を殺すことで永遠に相手を自分のものとできるなら、同じように相手に
殺されることで永遠に自分を相手のものとできる。
「志貴は………私が死徒に成り果てたら、私を殺してくれますか?」
 呟いてみて、それがひどく甘美なものに思われた。
 所詮、彼は自分の手の届かぬ存在だ。叶わない恋慕を抱えて苦しむよりもい
っそ―――
「いけない。私は何を考えている」
 今の自殺願望とも言える思考を行ったのは三番の分割思考か。
……どうかしている。たしかに無慈悲な教会の連中によって串刺しにされるよ
りは、志貴の手で葬ってもらった方がどれだけ安らかに逝けるか、とは思うが、
そんな残酷なことを彼にさせられるものか。
そんなことを、自分が初めて好いた異性に―――
「くぅ―――」
 また吸血衝動。
(日本の言葉で堂々巡り、と言ったか、この状況を。たしかに出口がない)
 どう思考を巡らしても自分の志貴に対する恋慕と吸血衝動は変わらない。
 ともあれ、今夜の夕食は志貴と同席しなければならないだろう。
 今までは、志貴が屋敷にいない時間を見計らって行動し、志貴が屋敷にいる
間は眠ってできるだけ顔をあわせないようにしていたのだが。
「今日は無理か。夕食とその後の茶会。起きているのなら顔を出さねば非礼に
当たる。………まあ、気をつけていればよほど大丈夫だろう」
 うん、と頷き、考えている間に動悸と呼吸が穏やかになったことに安堵しつ
つ立ち上がる。
 ……違和感を覚えた。
 立ち上がる動きに合わせるように、湿った音とともに全身を痺れるような感
覚が走る。
「……?」
 シオンの顔が強張る。
 恐る恐る、違和感の発生源―――スカートの下へ手を伸ばす。
 濡れていた。
 触れた指先が動揺で揺れ、潤んでいた秘所にずぶりと潜り込む。待ちかねた
ように下着の布ごと指が咥え込まれた。
「ぅあ―――っ!?」
 いきなりの刺激に身体が跳ねる。
 一瞬意識が白く焼けたが、何とか理性を取り戻した。思わず自慰行為をはじ
めそうになった指を気力を振り絞って引き抜く。
 すっかり濡れきった秘裂が未練がましく、くちゅり、と音を立てた。
「あ、はあ……。なんて―――浅ましい」
 志貴の血を吸うことと彼に殺されることを想像し、それに欲情していた。
(こんなことでは……!)
 いずれ堕ちてしまう。
 やはり嫌だ。自分が死徒に成り果ててしまった姿を、志貴と友人である秋葉
に見られるなど。
「負けない……」
 自らに言い聞かせるように呟いて、シオンは服の乱れを直す。濡れてしまっ
た下着はどうしようもないが、夕食までに換えれば良い。
 この状態で誰かに出くわすと厄介だ。早く自分の部屋へ戻ろう。
 そう思い、足を速めたシオンだったが、数歩でよろめいた。
「―――う」
 両足を速く動かしたために開いた秘裂の粘膜が擦り合わされ、甘い刺激が全
身に広がる。指を挿し入れたときのような強烈なものではないが、断続的な淡
い快感に腰が砕けそうになる。
 窓に手をついて再び荒れはじめた呼吸を整える。
 吸血衝動の高まりに伴い、性欲までもが強くなっているようだ。
 ―――血だけではなく志貴の身体そのものが欲しい。
 志貴に自分の想いを伝えて抱いてもらえれば静まるか、とも思うが、今の自
分では自制が効かずに行為の最中に志貴の首筋に牙を突き立ててしまう。
 志貴に貫かれながら自分も彼を貫く。
 想像しただけで戦慄する。おぞましく吐き気がするほど甘美な幻想。
「―――っ!!」
 瞬間。
 シオンの全身が悲鳴を上げた。
 骨髄に硫酸を流し込まれたような激痛が体内を駆け巡る。
「―――――――――――――――!!!!!」
 声帯が痙攣し、声さえ上げられない。
 しかし、気の狂いそうな激痛は一瞬で跡形も無く消え去った。僅かな痛みの
残滓さえなく、ただ狂った幻想を洗い流す。
「ふう……。今のところ、これが一番手っ取り早いか。人前でやるわけにはい
かないし、ぞっとしない方法ではあるが」
 自分のこめかみからエーテライトを引き抜き、シオンは大きく息をついた。
 甘い腐汁を滴らせながら爛れていくような吸血衝動に侵された思考と性欲の
高まりは鎮まっている。
 もはや理性ではどうにもならないと判断したシオンは、自らにエーテライト
を突き刺し、神経に激痛を走らせた。強烈な気付け薬のようなものだ。
(それにしても、本当に最近の私はおかしい。分割思考のいくつかが勝手な思
考をする回数が増えてきているような気がする……。何より―――)
 何故、これほど吸血衝動が高まっているのに志貴が気づかない?
 最初の出会いは昼間だったために死徒としての部分が極めて微弱だったのか、
志貴は自分が異常な生物であることに気づかなかった。
 だが二度目の出会いは夜。吸血衝動など無いに等しいにもかかわらず、夜に
なって活性化した死徒としての部分に志貴は反応した。
 今の自分は、間違いなく死徒としての部分が強まっている。
 下手をすれば志貴本人さえ気づかない内に解体される恐れがあるはずなのに、
何故か彼は普段どおりだ。
 解らない。
 だが、まずい状況であることはたしかだ。
 どこかに見落としがある。
 それを早く見つけねば取り返しのつかないことになる。
 ふと、顔を上げた。
 暗くなり始めた外との明暗で、窓ガラスは鏡と化しつつある。
 そこに自分の顔が写っている。


 紅い目を細め、牙を覗かせる口元を小さく歪ませ、淫靡な微笑を浮かべる自
分の顔―――


「っ!?」
 慌てて見直すと、疲れて不安げな表情の自分だった。
「どうかしている………」
 呟いた声に力が無いことを自覚しつつ、シオンは窓から離れた。
 

―――鏡となっている窓から目を逸らした瞬間。
―――自分の口元が再び微笑を作ったことを彼女は知らない。




 ドアを開け、シオンはベッドに倒れこむように横たわった。
「………ふう。なんとかなった」
 枕に頭を埋めつつ吐息する。
 夕食とその後の茶会。完璧に平常を装うことができた。
 最近間が悪くてシオンと会っていない、と思い込んでいる志貴が嬉しそうな
顔をする様子は正直きつかったが。
 それにしても、志貴がやや体調を崩していることが気になった。
 聞けば寝不足気味だという。
 真祖の姫君に一晩中つき合わされたのか、と思ったが違うらしい。
 彼との会話を思い出す。
『いや、最近どうも変な夢ばっかり見て……。お陰でどうも眠れないんだ』
『おかしいですね。志貴、貴方はもともと夢を見ないのではありませんか?』
『うん。ここに帰ってきたばかりのときはやたら見たけど、あれは四季の意識
が流れ込んできたからだったし。その前もその後も夢なんか見なかったけどな
あ……』
『それで、どんな夢です? 過去のことから、貴方の夢には何らかの意味があ
る可能性も考えられます』
『それがどうにも思い出せなくて……。なんか、吸血鬼に関係ある夢だったよ
うな』
 ドキリとした。
 根拠らしい根拠など無いと言うのに何故か気にかかった。
 だが志貴の記憶はひどく曖昧で、話はそこで終わってしまった。
「………寝よう」
 まとまらない思考を転がしていると、またろくでもない方向へ行ってしまう。
 シャワーはさきほど浴びてきた。
 寝巻きに着替えるとベッドに潜り込む。
 



「―――」
 気がつくと、両目を開けて天井を見上げていた。
「?」
 ついさっき眠りに落ちたばかりと思ったが、何故いきなり覚醒している?
 自己制御が上手くいかないのは最近では珍しくもないが、疲労で睡眠に障害
が出ているのかもしれない。我ながら情けなくなる。
 しかし充分な睡眠を採れないとなると問題だ。危険を承知で、琥珀の調合し
た薬でも試してみようか。効果だけは折り紙つきだと言うし。
 そんなことを妙に冴えてしまった頭で考えていたシオンだったが、ふと場違
いな音を聞いた。
 深夜ともなれば静けさに沈むはずのこの屋敷だが、今たしかになにかが打ち
合わされる音が聞こえた。
 この音。何度も聞いたことがある。不規則に、高速に、暴力的に二つの何か
がぶつかり合う音。時折、銃声らしきものも混じる。
 ―――すなわち、戦闘の音。
「!」
 急いで身を起こす。
 秋葉の能力ではあのような音は出ない。ならば戦っているのは志貴か。
 どちらにしろ加勢しなければ。
 急いで服を着、廊下へ走り出す。
 広い屋敷の中では音が反射や反響を繰り返し、発生源が特定できない。加え
て、戦っている者たちは高速で移動しているようだ。
 鋭く硬い音に、時折鈍い音が混じる。どちらかが相手の攻撃に対処しきれず、
身体に打ち込まれたのだ。
 誰かが何か叫んでいる声も聞こえる。必死に何かを訴えているような声。
「志貴―――!」
 何を言っているのかは解らないが、この声は志貴のものだ。
 唇を噛み、廊下を駆ける。
 横に並んだ窓の列から見える外の景色は暗く、屋敷が墨汁の中に沈んでいる
ような錯覚を覚える。
 何故か外に見える森が普段見ているものよりも深い気がしたが、今はそんな
錯覚に付き合っている暇は無い。
「志貴! どこです!?」
 焦燥に駆られて叫ぶ。
 さきほどから何度も攻撃を打ち込まれる鈍い音が響いてくるが、戦闘が終わ
る気配は見られない。
 志貴の直死の魔眼≠用いた攻撃なら音などしない。その一撃を入れる隙
を作るためのものならばあのような音がするだろうが。
 通常あれだけの回数の攻撃を打ち込み、死線や死点に刃を入れられればいか
なる超越種だろうと死滅は免れない。
 だが未だに戦闘が続いているということは、
「志貴が押されている……」
 攻撃を打ち込まれているのは志貴だ。相手は彼に攻撃の機会さえ与えないほ
どの強敵なのか。
 思い、さらに足を速めた瞬間。
 いきなり音が接近してきた。
「……!」
 身構える。
 同時。
 シオンの前方。廊下の壁の一部に出鱈目な裂線が走り、崩壊した。
 そこから投げ出されるように人影が現れる。
 志貴だ。
 彼は酷い有様になっていた。
 服はあちらこちら破れ、その下から覗く肌の幾箇所はかなり派手に出血して
いる。
 切り裂いたような傷と抉られたような傷。
 特にナイフを持つ右腕を庇ったらしい左腕はズタズタに引き裂かれ、既に使
いものにならなくなっていた。
「志貴!!」
 叫び、駆け寄ろうとする。
 その声にぎょっとした顔で志貴が振り向いた。
 駆け寄ってくるシオンを見たその顔に困惑が浮かぶ。
「な―――、え? シオン? じゃああれは―――」
 注意が完全に逸れた。今まで戦っていた敵から。
 その結果は致命。
 シオンの目の前で志貴が車に撥ねられたような動きで吹っ飛んだ。
 肋骨が数本。まとめて折れる音がいやに大きく響く。
 完全に無防備な状態で攻撃をまともに喰らった志貴は受け身さえ取れず、ち
ょうど窓と窓の間の壁の部分に激突。
 今度は、新たに複数の骨が折れる音と折れた肋骨がさらに砕ける音が、聞き
たくもないのにシオンの聴覚に飛び込んでくる。
 糸の切れた人形が放り出されるように、湿った音とともに志貴が床に崩れ落
ちた。やや間をおいて、そこから血溜まりが広がりはじめる。
「え―――?」
 自分の声帯が間抜けな声を上げる。思考が停止する。身体が硬直する。
「し、志貴……」
「今夜はここまでですか。もう少し楽しめるかと思いましたが、邪魔が入った
のでは仕方が無い。協力感謝します、―――私よ」
 呆然として立ち尽くすシオンの背後から足音と声が近づいてくる。
 一瞬の忘我から立ち直り、シオンは身構えつつ振り向いた。志貴はまだ息が
ある。この敵を早く何とかすれば間に合うかもしれない。
 凍りついた思考と理性を強引に復帰させたシオンだったが、背後の敵の姿を
確認した途端、再び凍りついた。
「どうしました? すいぶんと意外そうな表情ですが。私とて鏡ぐらい見るで
しょう。この顔は見慣れたものだと思いますが」
 志貴が開けた壁の穴、その暗がりからそれ≠ェ足を踏み出す。
 紫を基調とした服。同じ色のニーソックスとベレー帽。長い三つ編み。両手
首の腕輪。無造作に下げられた拳銃。
 そして、

 ―――血の如く紅い両眼と
  ―――口元から覗く鋭い犬歯

 カツ、と硬い足音を響かせ、深い森を辛うじて掻い潜ってきた月光の中に
それ≠ェ立つ。
「黙り込むとは弁の立つ私らしくもない。ようやくこうして会合が叶ったので
すから私としては喜び合いたいのですが、私はどうやらそんな気分ではないよ
うですね」
 自らを私≠ニ呼び同時にシオンのことも私≠ニ呼ぶ。
 ―――狂った光景に眩暈がする。
 

 シオンの目の前に立ち容赦なく志貴を傷つけたのは、紛れもなくシオン自身
だった。


                                      《つづく》