|
目蓋を閉じたまま眼球を動かす。
見えないのに見えている感覚。瞳の周りの筋肉の微妙な強張り。こめかみに
中途に焼けるような疼きが視神経を弄る。
上下。
左右。
斜め。
どの方向に動かしても景色は同じ。目蓋を閉じているのだから当然だろうが、
広がる黒い闇には僅かな光明すら存在しない。
何も無い。
存在していない。
無。
虚無。
虚空。
零。
瞳を外気にさらす。
久しぶりに目蓋を開けるので思うように筋肉が動いてくれなかった。まるで
枷でもされたかのように重く、ほんの少し動かすだけで呼吸が乱れる。
ゆっくりと開かれた視界。
暗幕を開けた世界。
そこは閉じた瞳と同じ闇の世界。
存在するのは簡素な家具一式と体の下に敷かれている布団のみ。
それらが深淵の黒に埋もれて影を落とす。
酷く人気の無い世界だった。
そう、何も無い世界。
自分にこれほどふさわしい世界は他に無いのではないか?
家族を奪われ。
地位を奪われ。
自分を奪われ。
そして一番大事なモノを奪われた自分にとって―――
この闇の世界は相応しい。
ふと。
闇の中に一筋の白を見つける。
淡く、薄い、柔らかな光。
それが申し訳程度に差し込んで、闇に僅かな宵の光をもたらしていた。
おそらくは、ここの換気口からのものだろう。
今宵は月夜のようだ。
――――はっ。
声に出すでもなく吐息。渇ききったそれは弱々しいが皮肉めいている。
闇にさす光明。
闇の世界に生きる自分。
そこに光明など在るはずも無い。
ただそれが。
酷く冷たく思えた。
『されど我が渇き潤うこと無く』
10=8 01
この地下の部屋に入ってからどのくらいの月日が経っただろう。
いや、月日なんていうものではない、年月というくらいの時をこの部屋で過
ごした。この部屋でしか過ごせなかった。
もう日を数えるのは大分前に止めてしまった。
こんな場所では何かの書籍を持ってきてもらって読んで過ごす事が大半を占
める。あの日以来、何故か知識を渇望するようになっていて、難しい本を読む
ことが多くなった。
それでも、ここの生活は退屈極まりない。
一日の全てを無為に過ごし。
一日の全てを無為に失う。
一体、何処でどうしてこうなってしまったのだろう。
今までに何度となく繰り返した自問。
未だ返答は無い。
思い出す。
腕にまとわりつく、ぬるり、としたもの。
以前までの自分だったら怖気を感じて腕を振り払っていただろう。だが、そ
の一瞬の時は途方も無く心地よいと感じていた。
倒れる肢体。
流れる液体。
動かぬ死体。
溢れ出す液体は、どこまでも、どこまでも、どこまでも、どこまでも―――
赤く、紅く、朱く、燃える様に、あの忌々しいまでに照りつける太陽以上に、
あかく。
そして腕に張り付いた血液を舐め上げる。
飲み下したそれは極上のワインにも勝るほどの濃度の味。喉に張り付くよう
に刻み込まれたその味は、脊髄を一気に駆け抜けるように気持ちのいい。その
味に不快感を感じると思っていたがどうだろう、予想以上の甘美は蜜のように
舌先を伝っていくではないか。
そして怯える秋葉の表情が血の味をさらに美味しくさせる。
そう。
そんな、昔のことを思い出した。
横になりながら思考を揺らがせる。
あの日。
潤した渇きはたまらなく気持ちよかった。
こうして年月を重ねた今でも、あの日に勝る潤いを感じたことはない。
それもそうか。
この部屋は部屋にして部屋にあらず。全ての自由を禁じた――そう、檻その
ものなのだから。その証拠に、室内には入り口らしい扉はあれど、そこを遮る
様に鉄格子が編みこまれている。
こんな場所では、あの日を超える快感など得られるはずもない。
動かすことすら億劫になってしまった肉体をそのままに再び目蓋を閉じた。
――――!!
身体が爆ぜるように弓なりになる。
突如にして襲われるその衝撃は、外から与えられたものではない。
脳を焦がし、胸の内を焼き払い、血管の全てを駆け抜けるような灼熱。
瞬間的に蒸発するのならば、まさに今がその時ではないだろうか。そう思え
てしまうほどに突き抜ける衝撃は熱かった。
渇ききった身体が渇望の息を吐く。
求める空気は冷え冷えとした静謐さを湛えていて、その肉体を程よく落ち着
かせてゆく。
だが、熱さは引けど、そこから生まれた衝動は引くことは無い。
思考することを忘れた脳が活性化。
己の肉体を維持するために警報をけたたましく鳴らす。
まるで本当に警報が鳴っているように視界が真っ赤に染まった。
そして停止。
一瞬の均衡は、暴れる内面を抑え込む理性によるもの。
こうしているだけで精一杯だが、しばらく抑えていれば衝動は引いてくれる。
見開かれた瞳が移すは白き円月。
換気口から見える景色は、屋敷や雑木林に遮られることなく宵の天を映し出
している。狭い額縁を限界にまで侵食する月。
白き輝きは自ら光ることはないが、その慎みを携えた輝きは照りつける陽光
よりも遥かに心地よく柔らかで、そして鋭い。
その月が。
あまりにもキレイすぎて。
自らの中のソレが暴れだした。
――ぎっ、ぎぎっ、ぎし、ぃぃ、ぎりぎり、み、ぃぃ、ぎし――
そんな音すら立てて体中を駆け巡る衝動。
その衝動は、あの夏の日からというものの毎日のように自分に付きまとって
いる。それは己の中に潜在的に潜んでいるものに違い無かったが、どこか自分
とは異なるような一線を引いた存在でもあった。
それは衝動という自分自身か。
それとも別の何かだとでもいうのか。
その激しさに身悶えていると言うのに――酷く世界は涼やかだった。
どれほどまでに、身体をくねらせ、酸素を渇望しても、自分から漏れ出る声
は枯れてしまったように小さい。
その瞳も、ただただ静寂を纏った風景を見つめ。
その口も、ただただ冷えた空気を吸い、吐き。
その肌も、ただただ動かぬ静謐さを持つ空気に沈む。
その耳は、ただただ乾ききった空気の中で。
足音を聞く。
リズムよく。それこそ、渇ききった空気によく響く足音は、久しく聞いた人
の気配を纏っている。
誰かが来る。
その事実が神経を逆撫でするように、胸の内を弄りだした。
――こつ、こつ、こつ――ぎっ、ぎし、ぎり――
――かつ、かつ、かつ――がぃ、ぃぎ、じじ――
足音と衝動の軋みが重なる。
一方は寸分の狂いも無く刻まれてゆく、人間味を欠いた正確さの足音。
一方は正しい規則性などは存在もしない、人間味など存在しない崩音。
その二つが共鳴し。
ハウリングのように、この肉体を蝕んでゆく。
近づくその気配が。
その匂いが。
吐息が。
この衝動を加速させる。
渇きの我慢を霧散させる。
蒸発する。焼け焦げる。燃え尽きる。灰になる。焼滅されてゆく。
理性を。
タガを。
――そして、残るは――
「はぁ、はぁ、はぁ……欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、
欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、
欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、
欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、
欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、
欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、
欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、
欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい………」
己を満たしてゆく紅い衝動のみ。
渇望は未だ満たされず、反響するように声を響かせる。
その部屋は部屋でありながら部屋でない。
そんな印象を持ちつつも、わたしは扉を開けた。
明かりの無い地下は闇色で、視界を暗に染める。
だが完全な黒ではない。
どうやら換気口から月明かりが差し込んでいるらしく、普段の宵闇では気づ
かないような輝きも、尊い煌きのよう。
足音を隠すでもなく歩を進める。部屋の中は広くもなければ狭くもない、と
いった程度の広さであるために、目的の場所まではすぐにたどり着いた。
無数の十字を張る鉄格子。
月明かりを受けたそれは、交錯する影を別の影の上に落とす。
影を浴び、うずくまる影。
月光を浴びた長めの白髪が揺れ、こちらを見上げる。
わたしは獰猛な獣を思わせる視線よりも、彼が顔を上げたことによって見え
た胸に視線が注目する。はだけた和服はだらしなく、その色素の薄い胸をあら
わにしていた。
黒に溶ける紅。
そこは普段の白磁めいた滑らかな肌ではなく、むしろそれを汚すような、乱
暴に引き裂いたような傷で朱に染まっていた。
視線を僅かにずらすと彼の指が同じように赤く染まっている。おそらくは、
自らの胸を掻き毟ったのであろう。口元を伝う液体は己の血なのか、それとも
単なる唾液なのか。この暗闇ではそこまでの判断はできなかった。
しゃがんで顔を近づける。
こうして接近すると彼の荒々しい吐息がはっきりと聞こえてきた。この様子
を見れば、十中八九で衰弱していると判断されるだろう。
無理もない。
彼は実の父親と一週間前に面会し、内に溜まった有らん限りの感情を叩きつ
けたのだ。その呪詛とも言うべき言葉の数々は、彼の父親――遠野家当主の槙
久様の逆鱗に触れるには十分すぎた。槙久様も感情の制御がすでに危うい状況
だったので、それも彼への仕打ちを促すのに一役買っていたのだろう。
結果、彼は食事はおろか水一滴すらこの一週間含んでいない。
この牢屋は牢屋らしからぬ設備を持っていて空調もきいている。時期当主で
あった彼に宛がわれた部屋なのだから、当然と言えば当然のことであろう。だ
が、その空調が朝露一滴たりとも部屋に零すことなくしているために、逆に彼
を蝕む拷問の機能となっていた。
だとしたら皮肉以外の何者でもない。
彼を思って付けてある機能が彼を苦しめているのだから。
こちらに叩きつける視線。
わたしはそれを難なく受け止める。
彼に対して特に感慨があるわけでもなかった。
ただ、こうした方がいいのだろう、と判断しての行動でここまできた。
それだけのこと。
そこに感情も何も無い。
「あらあら。服を汚してしまわれて……」
多分、今わたしは笑っているのだろう。
それは本心からのものではない。
ただ、ここではこうするのが一番普通なのではないかと思った。
それだけのこと。
指先で胸の血だまりを拭う。粘液質な感触がくるかと思ったが、意外とサラ
サラとした液体そのままの感触だった。
白い指を伝う赤を口元へ運び―――舐める。
突如。
彼の腕がわたしの手を引っ張り、引き寄せてきた。あまりにも乱暴なそれに
よって鉄格子に容赦なく身体を叩きつけられてしまう。
痛みは感じなかった。
痛くはなかった。
人形だから。
こうされたのは初めてではない。
今までも何度かこのように引き込まれて、彼がわたしに性欲を吐き出したこ
とがある。
わたしは別段そのことを何とも思っていない。
今日も彼がわたしを求めるのか、そう思って視線を向ける。
どうにも違うらしい。
いつもの性欲とは異なる、もっと根源的な渇望。
解りやすく言えば“必死”なように見えた。
その呼吸もどこか潤いというか、湿り気のようなものがなく、渇ききった妙
な響きを含んでいた。
睨み付けるような上目使いがむき出しの意思を叩きつける。
いや、その鋭さから、むしろ突き刺すと言った方が正しい。
ふと。
本当に突然に思い至った。
こうしてはどうだろうか?
その女はいつもの笑顔をより深くした。
無機質な笑顔を振りまく彼女の名は琥珀。
自分の世話をしている。
世話と言っても食事を運んだり、本を持ってきたりするだけだが。
その女が。
突然にしゃがんだまま、和服をはだけさせた。
腰まで捲り上げられた割烹着の下は何もはいていなく、薄暗い中に慎ましや
かに咲く花弁をあらわにしている。
足を開くような体勢だからか、その秘裂は半開きの口唇のようにだらしない。
何をするつもりだ、この女?
その疑問は言葉にならずに頭の中を駆けてゆく。
そんなこちらの表情が面白いのか、彼女はクスリと笑って白い指を蕾にあて
がわせた。そのまま、中指、人差し指を器用に使い、柔肉の壁を開かせる。
生々しいその光景は見るものを酔わせるような魔力を含む。
そこから。
本当に。
予想だにしない。
まさか。
彼女が。
――ちゅしゃ――
――ちょろ、ちょろろろろ、びゅ――
久方ぶりに聞いた水音が、目の前で弧を描きながら展開。
強引に開いた割れ目の中。サーモンピンクの滑る色合いの中。
その一点の尿道口。
漏れる、零れる、飛び散る、流れる、色を持つ液体。
眼前の受け皿――最後に食事した時のものだ、確か中はスープだった――に、
じょぼじょぼという水音を立てながら溜め込まれてゆく。
静寂を内包した室内に淡々と響いてゆき。
静謐を纏った空気がむせ返る匂いに侵食される。
ほどなくして放尿が終わる。
びゅ、という最後の飛沫を出した後、そのまま何事も無かったように彼女は
立ち上がる。
尿を溜め込んだ皿を持ち、見下ろしながら聞いてきた。
「渇いてますか?」
それは単なる確認の言葉だろう。
俺は答えない。
そして彼女も答えを待たずして続ける。
「わたしは……感応者と呼ばれるものです」
感応者。
聞いたことがある。
自らの体力を他者に分け与える能力だ。
性欲を吐き出したときに、なんとなく気づいてはいた。
「……欲しいですか?」
これも質問ではない。
確認。
俺は彼女を見上げる。
上等。
この。
この渇きを潤すのなら。
お前の。
琥珀の尿でも飲んでやる。
それを汲み取った琥珀の笑みが深くなる。深いが、相変わらず無機質だ。
満足したような様子の彼女は、そのまま受け皿をひっくり返した。
びしゃり。
あっさりと俺の頭にかかる琥珀の尿。
髪を伝い床に広がるそれを、舐める。
――ずっ、ずずず、じゅ、じゅる、ずず――
そこに。
恥も。
外聞も。
常識も。
何も存在しない。
ただ、貪る様に俺は尿を啜り続けた。
喉を通り抜ける金色の液体は喉を抜け、胃を満たし、体中へと浸透してゆく。
燃えるような身体の熱が、内側からの冷水で消沈してゆくよう。
熱は奪われど、身体は満たされる。
まだ。
まだ足りない。
満たされているが、何か足りない。
もっと。
もっと紅くて。赤くて。朱くて。
ぬるぬるした。べとべとした。どろどろした。
あの蜜のような。
心地よい。
気持ちよい。
アレが。
欲しい。
口端をつりあげて、琥珀の瞳を見つめる。
そこには。
鏡面に移された自分が発達した犬歯――牙を覗かせ笑っていた。
その表情は未だ満たされていない。
彼――四季様が笑う。
渇きから満たされた悦びからだろうか。
だが、その表情は未だに好戦的な獣のように揺れている。
まだ満ちない。
それはわたしも同じ。
これからだから。
わたしがすべきことは、これから始まるから。
人間らしいことをするから。
これから……わたしは満ちるはず。
だから。
未だわたしは満ちていない。
<了>
|