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滴り落ちて
阿羅本 景
俺がそうしたのは無意識のことだった。
人間は慣れ親しんだ行為をルーチンにしてしまい、それをするという気もな
くやることが出来る。たとえば俺の場合は朝目覚めてから眼鏡を掛けるまでは、
自動化されて無意識になっている――眼鏡の場合は着けないと見たくないモノ
が見えるので、当たり前でもあるのだけども。
学校でも玄関から教室まで上がったり、水曜の四限に教室移動したりするの
もほとんど同じだった。その中で貧血で倒れるとかバックれたりとかイベント
があるとそうも行かないが、気が付くと椅子に座って黒板を眺めていたりする。
なぜ?というものではない。なぜ、という思考よりも低い意識下の物事だか
ら、そんなことを思うこともない。
これも、それと同じことだった。
俺は無意識で立ち上がり、ドアを開き、廊下を歩き、まっすぐにその扉に向
かい、ノックすることもなくドアノブに手を掛けて開いてズボンのチャックを
下ろして――
「え?」
その声で、俺は我に返った。
ドアを大きく開き、そこにあるのは小さな部屋であった。奥行きも狭くおお
よそ二畳もない部屋で、この無駄に何もかもが広大な遠野家の部屋の中では格
段に狭い部屋であった。いや、この部屋の目的からするとこの広さでも、世間
の基準より遥かに大きな造りであるのだが。
ブルーを基調とした、ストライプの壁紙。
縦長の部屋の奥には椅子のようなものがあり、そこに腰掛けていたのは琥珀
さんだった。
琥珀さんは俺の顔を見上げ、驚きに目を見開いて口をぽかんと開けている。
アンバーブラウンの瞳は貴石のようだが、いつもはその中にくるくる踊ってい
る笑いが抜け落ちていた。
そんな一瞬の光景を、俺は引き延ばして観察してしまう。ストレッチされた
時間の中で、急上昇する意識がこの光景を分析する。
いや、琥珀さんが腰掛けているのは椅子のようなもの、ではない。
それは陶器の洋式便器で、琥珀さんの足の間に見える白いつやつやの表面に
はご丁寧に金の飾りまでしてある。傍らの壁に生えたのはトイレットペーパー
入れ。
琥珀さんは着物の背中をまくり上げている様で、前の合わせの間から白い足
が伸び、その付け根の黒い茂みが一瞬だけ見えたような気がした。
その直後に前屈みになって、その瞳が俺を、というよりも俺のいる空間を捉
えようとしてままならぬかのような――
琥珀さんがいるこの部屋は、書斎でも寝室でもない。
客室にバスタブが置いてあるが、流石に洋式便器は置いていない。
もちろん洋式便器があるのはトイレットに決まっている。でも、琥珀さんが
いて、俺はチャックを開けていて、ふたりとも顔を見合わせて動きを凍らせ、
それに俺はここに何をしにきたのだかわからなかった。
なぜ、俺は琥珀さんを見つめているのだろう。
琥珀さんはなんで俺をそんな、驚きの瞳で見つめるのだろう。
そして、なぜトイレで俺は――俺は何をしに来たのか――
「しっしっしっしっ、志貴さん!」
琥珀さんの素っ頓狂な叫びが上がるまで、俺は股間を開いて立ち尽くしてい
た。
その時間は0・1秒以下であったはずだ。その割には思考と観察が濃厚で一
分間ぐらいこうしていたような錯覚すらある。人間、意識の時間というのは可
変であり――
そんな俺の内側に向かいがちな思考を引き戻す、音が聞こえる。
ちょろろろろろ、と水滴が陶器の表面で弾ける音。
琥珀さんは股間を押さえ込んで屈み込んで、やにわ真っ赤になった顔で悲鳴
を上げる。琥珀さんは必死の表情で俺を見上げていた
「志貴さんっ、はっ、早く閉めてください!」
「え?あ?あああ!?」
この水音は何なんだろう。
それに俺は何で琥珀さんとトイレで向かい合っているんだろう。わからない。
でも、兎に角早く閉めないことには――
俺は大急ぎで飛び退くと、手に掛かったままだった扉を急いで叩きつけた。
その間もしー、という水音が聞こえていたが、締まる扉の向こうで最後に忙
しげに琥珀さんが動くのが垣間見え、それに遅れて今度は遥かに大きな音が覆
い隠す。
どじゃー!と大量の水が勢いよく流れる音。
俺は閉めた扉に背中を当て、混乱する思考を落ち着かせようとする。俺の脳
裏に焼き付けられたのは、前屈みになって俺を見上げる琥珀さんの顔と、ちょ
ろろろ、という水音。
じゃぁぁぁ、と長く流れる水洗音が扉越しに聞こえる中、ようやく俺はなぜ
こうなったのかのそもそもの原因を悟った。
「う……」
下腹部に重くのしかかる、尿意。
そうだ、俺はお手洗いのためにトイレまで来て、ノックもせずに開けたら琥
珀さんが中にいた――この広い遠野家のトイレでばったり居合わせるのは、天
文学的とまではいかないがかなりの低い確率の筈であった。
おまけに琥珀さんも鍵を閉めていなかった。多分、誰かがいきなり開けると
は考えなかったんだろう。俺も誰かが中に入っているなんて毛頭考えていなか
った。
いや、ここまで来たのも本能が無意識下に俺を動かしていたからであって―
―それは言い訳にはならないかも知れないけども、俺は図らずも琥珀さんの、
お小水の現場を覗いて音まで聞いてしまった訳であり――
琥珀さんが真っ赤になるのも分かる。
悪いコトをしちゃったな、と思う反面これが翡翠だったら俺は自責の念のあ
まり自殺を強いられ、秋葉だったらそんなことよりも他殺だったな、と茶化し
て考えもする。
でも、この扉の向こうには現に琥珀さんがいるわけで……それにトイレにそ
んなに長居する用もないだろうから、もうすぐ顔を合わせないと行けなくて…
…
「うぁ……あ……あぅ」
それよりも、俺の尿意がだんだんピンチになってくる。
とりあえずは出す物を出さないと俺が破滅しかねない。まだ持つ、その余裕
がある内に出しておかないと――琥珀さんには後で謝ろう、許してくれるに違
いない、というか今謝って許してもらえなかったら俺はダブルで破滅だ。人間
一緒に複数回破滅することはない。
でも、とりあえずは……
「ご、御免、琥珀さん――」
俺はそう言い残して、ダッシュで別のトイレを探す。今日ばかりは広大な遠
野家の敷地が恨めしい――そして今度は無意識下ではなく、迫り来るタイムリ
ミットと戦いながら。
俺は頭を抱えたくなる情けなさと、玉を握って体の中に押し込もうとする尿
意と戦いながら、シャングリラのごときトイレと白亜の宮殿の如き便器を求め
て走った――
己の尊厳を賭けて。
……間に合わなかったら泣いてやるぅ、高校生にもなってそれだけはいやだ
ぁぁぁ!
《つづく》
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