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unforgettable
阿羅本 景
「ねーねー蒼香ちゃーん」
「なんだい、羽居」
「おしっこのませてー」
みしっ
返答の変わりに響いたのは、月姫蒼香の踵が三澤羽居の額にめり込む音であ
った。
二人とも夜着で消灯前の自由時間、乙女達の間ではお菓子とハーブティーを
片手によしなしごとの会話が弾む……はずであったのだが。
この部屋に響き渡るのは見事な一撃の残響のみ。
身長の低い蒼香が、どうやって背の高い羽居の頭に踵落としを放てるのか、
そんな物理的な謎がどうしても残らなくもないが、蒼香のぴんと伸びた足はき
っちり羽居の紅茶色のほわほわの生え際に決まっていた。
決める方の蒼香は文字通り眦を決して怒りに顔を引きつらせ――
決められた方の羽居はきゅぅー、と目を丸くしてへなへなと崩れ落ちていっ
た。
「きゅぅぅぅーん……」
「……おまいさん、聞き間違えかも知れないけど、今なんて言った?」
仰け反ってベッドに崩れ落ちていく羽居に、腰に手を当てた蒼香が微かに震
える声で問いつめる。トレーニングウェア姿で髪を後ろに纏めた蒼香はまるで
少年のようであり、腰に手を当てて感情を露わにするのは凛々しくもある。
一方で可愛いプリント柄の羽居はいかにも可愛らしく女の子女の子していた
けども、KO寸前の今の有様では間抜けさと情けなさのミックスした脱力系の
空気を漂わせていた。
額を抑えてんんー、と羽居は二三度ベッドの上を転がりながらじたばたする
が、やがれ顔を起こして唇を蒼香に向けてとんがらせる。
ぶーぶーという不平の文句に混じって、羽居の言う様には――
「人に踵落としをするのは、聞き直した後で良いじゃないのー」
「いや、それだと踵落としを放つチャンスを逃すからな。その後で聞き間違い
だと分かっても状況に問題は……」
「蒼香ちゃん横暴ー、だんだん秋葉ちゃんに似てきたー」
「あいつほどではないと思ったんだけどな……とにかく!」
蒼香はぐっと拳を握り震わせると、人差し指を立てて羽居に突きつけた。
羽居はほえーん、とその指先を見つめて首を傾げる。いつの間にかベッドの
上に座り込み、枕を抱えて蒼香の方を見つめている。
「だからなんと言った、羽居」
「蒼香ちゃんのおしっこのませ……あんっー!ぼ、ぼりょくはんたーい!」
再び蒼香の拳が握られ、弓を引くようなナックルパートの構えを見せた途端
に羽居が枕で頭を隠す。その枕の上からなら渾身の力で殴って良いのか?とい
う内心の問いを発する蒼香だが、拳の矢を引き絞ったままで尋ね続ける。
「……おしっこ、というのはおまえさんあれか、いわゆるお小水とも尿とも言
うあの排出される液体のことか」
「そうだよー」
花も恥じらう乙女が深夜に二人っきりでお小水のことをネタに話し合うとは
……蒼香は全身の脱力感を覚える。だがそれにくじけて羽居に問わずにはいら
れない。
いっそ羽居のことを放りだして不貞寝を決め込みたくもある蒼香であったが、
根気強くこの笑う不条理なルームメイトに尋ね続ける。
「誰の、お小水を、どうすると?」
「蒼香ちゃんのを私が飲むのー」
「……もう一つ尋ねて良いか?何のためだ」
相も変わらず拳は羽居に狙いを付け、狙われる方はパンチミットのように枕
を構えている。だが、枕の向こうの羽居は何かを思い出すようなんー?という
考え顔になる。
この隙に黙らせてしまいたい……蒼香はそんな暴力の衝動と戦う。そして、
それがお小水に端を発するというその事実が情けなくてならなかった。
これは私は前世の功徳が足りなかったからなのか――そんな諦観めいたモノ
まで蒼香の頭の中に去来する最中に、羽居が枕の向こうから顔を覗かせる。
その瞳はじっと、蒼香の瞳を求めるような熱さがあり……蒼香が一瞬怯むほ
どであった。
蒼香の拳の力がゆっくりと抜ける。無言で蒼香は羽居の答えを待つ。
「……蒼香ちゃんを、忘れたくないから」
「…………」
その言葉に、蒼香は戸惑いを覚える。
蒼香のことを忘れたくない――その言葉には胸騒ぎを覚える。今は親兄弟よ
りもこのルームメイトを身近に感じて生活しているが、この浅上女学院の寄宿
舎の生活もいつかは終わりを迎える。蒼香と羽居がお互い、別の人生と別の道
を歩むことになる。
去る者は日々に疎し――古人はこう云う。お互い分かたれる運命であれば、
この日々も忘れてしまうかも知れない……それは遠い未来のことだと思ってい
たけども、見渡せばそれまでの時間はあまり残されてはいないと……
だから、忘れたくない――その言葉が胸に染みた。
自分はそれから顔を遠ざけていたけども、羽居はそれを静かに見据えていた
のだと――
だが。
「……羽居」
「なになに、蒼香ちゃん?」
「で、それがどういう風にお小水を飲むことに繋がるんだ」
――当然の疑問がそこには相変わらず立ちはだかっていた。
蒼香の目の前にあるのは羽居の言動の原因と結果だけであり、一番知りたい
そのプロセスがざっくりと切り落とされている。
ついセンチメンタルな感情に騙されて羽居を許してしまいそうになった自分
を蒼香は内心で叱りつけた。しっかりしろ、蒼香、自分は流されてるって……
「……えーっとねぇ……」
「………」
「女は男の尿を飲むと、その相手が忘れられなくなるんだってー」
――またしても、飛躍が飛躍を生んでいる。
蒼香はとうとう構えていた拳をだらんと下げて、肩から脱力してしまってい
た。地面を掘るといつまでも土が掻き出されるように、羽居を追求すると何時
までも飛躍と不条理ばかりが掘り出される。そんな三澤羽居という存在に慣れ
たつもりであったが、彼女は蒼香の常に一歩斜め上を進んでいる……
――で、誰がオトコで誰がオンナなんだ、誰が
と言う具合に今耳にした発言にも無限のつっこみどころを見つけていたが、
敢えてそれを放置して蒼香は尋問を続ける。単刀直入で竹を割ったような性格
を好む蒼香はこの年頃の少女心理の織りなす回りくどく核心までが遠い会話が
苦手であった。
が、羽居はそんな分類を超越している。
蒼香が刈り上げた項を掻き、片唇を噛んでしばし苦渋の呻きを漏らしていた
が……
「……それは、呪術の一種か?」
羽居の話から構成した、蒼香なりの推論が述べられる。
だが、肝心の羽居はじゅじゅつ?と呟いて首を傾げるばかり。苦虫を噛み潰
したような蒼香は手を軽く振って話し始める。
「あれだ、そんな人の尿を飲むなんて云うアブノーマルな行為を人間の感情関
係に絡めるのは呪術独特のプロセスだとかなんとか……遠野のヤツならこの辺
は一家言があるんだがなぁ」
「……じゅじゅつってなに?」
「あーもう、おまじないとかそういうもんだ!」
反応が一拍遅れる羽居にとうとう我慢がしかねたように、蒼香がコメカミに
筋を立てて怒鳴った。それに羽居は枕でブロックする。もう一度枕に殴りかか
りたい苛立ちを押さえ、蒼香はぐるぐると空中になにかの図を書くようにして
動かしてみせる。
「人形に相手の髪を結わえ付けたり、名前を書いた紙を飲んでみたりとかいろ
いろあるんだよ……ウチは単なる檀家経営の寺だけどな、そう言うまじないま
がいの事柄が生業の寺や神社は多いんだよ」
「えー、蒼香ちゃん物知りー、やっぱりお寺の子ー」
「で、そのなんだ、尿を飲むというのはどこのまじないなんだ?この学校にま
たそんなまじないが流行始めているのか……」
それに羽居はすぐには答えない。
だが、枕を起こすと蒼香に背を向け、ベッドの中をごそごそと探り出す。人
の話を中座して脳天気に寝床あさりをする羽居の大きなお尻を蹴飛ばしたくも
なるが、またしてもぐっと我慢する蒼香であった。
もはやその我慢が健気の領域に達しつつある蒼香を無視して――
「あったあった、じゃじゃじゃーん!」
羽居の明るい茶色の髪が振り返ると、大仰にファンファーレ付きで振り返る。
それも、手には雑誌を持って――蒼香は目を細めてその手にある雑誌のタイ
トルを読もうとする。大方、この女子寮の中の禁書目録に入っているヤングテ
ィーン向けの女性雑誌で、これも訳もない記事だと見当を付けるが……
「……なんだそれ」
蒼香は自分が見たものが信じられなかった。
それが理解できないのではなく、ここに存在する理由が思いもつかない――
この浅上の寄宿舎で、おまけに自分の部屋で、ルームメイトである三澤羽居に
そんなものを見せつけられるとは――
「えっへん!我が国のえらい政治家の人がそう言ってるんだってー」
「…………」
蒼香はまず、はしゃぐ羽居を前に目頭を指でもみほぐす。
そして深く深呼吸。
腹式呼吸で目一杯息を吸うと、肺腑の限りを尽くして――
「羽居ぃ!」
「ひぃ!」
「なんでお前が中年サラリーマン向けゴシップ雑誌を読んでるんだよ!」
「しゃ、社会勉強ー」
週刊○○、と書かれたその雑誌に蒼香は怒号を叩きつけていた。
そのグラビアアイドルの脇のタイトルには『〜〜政調会長の愛人告白!その
爛れた関係が〜〜』などという白抜きゴシックのタイトルが踊っている。まっ
たく、別の意味でこの浅上女子寄宿舎にはふさわしくない本であった。
……オッサン臭くて。
「ほらほら、だってここで箱入り娘の生活していたらいざ社会に出たときに何
の役にも立たないって蒼香ちゃん良く言ってるじゃーん」
「……いや、そう云う持論はあるけどもな」
「だから、私もいろいろ勉強しなきゃなーと思って、密かに持ち込んで見たのー」
ぺらぺらとザラ紙の紙面をめくって目を通している羽居に、蒼香は頭痛を覚
えていた。
確かに浅上の純粋培養された女子高生というのは世間的には希少価値はある
かも知れないが、いざその中で育つのは女の権力抗争とヒステリーと僻み根性
ばっかり仕込まれた駄目人間でしかい……と蒼香は思っていた。なので、世間
の風に触れることは重要だ。
遠野秋葉のように、なにもしなくても威風堂々としているのは希少価値のあ
る人間で、それ以外は人生やり直してこい、といいたくなるクラスメイトなど
は多い。
だが、しかし。
よりもよってそんなオッサン臭い雑誌を読むのは無いんじゃないのか?と深
刻な悩みを抱える蒼香は思う。その間もズキズキと痛む目頭を指で揉みながら。
「すっごいねー、世の中いろいろ陰謀だらけだねー、独裁者の半島国家とかパ
チンコとかー」
「あの、な、羽居……」
「それでね、そのえらい政治家の先生が愛人に『オンナはオトコの尿を飲むと
そのオトコを忘れられなくなるんだ』とかいって、体に悪そうな尿を飲ませた
んだってー」
「…………」
蒼香は情けないやら哀しいやらで、目頭を撫でる指に涙が伝うような気がし
た。
いったい羽居は何を読んで、何を根拠に、何を信じ込んでいるのかと――羽
居の謎の言動のあらましを把握したとは言え、むしろ状況が悪化したような気
がしてならない。
そして、この不条理な話に直面させられる自分が可哀想だとも……でも、蒼
香以外に羽居の不条理に対峙せねばならぬ人間がいないことを知っているだけ
に、今はただ酢の様に身を浸す情けなさに痺れるしかない。
「……でも、蒼香ちゃんのおしっこなら身体に良さそうだから……」
「そう言う問題じゃないだろ、羽居……中年の脂ぎった糖尿の政治家のオヤジ
とアタシを比べるのは間違ってる……」
「だから、蒼香ちゃんのおしっこを飲むの……」
ぽふんと枕を抱きしめると、羽居がベッドから立ち上がった。
いったい何を……と呆れたように顔を伺う蒼香は、目線を向けた先から顔を
動かせなくなっていた。あ……という小さな驚きの息が蒼香の口から漏れる。
羽居は、覚悟を決めた瞳で蒼香を熱く眺めていた。
蒼香は知らず退こうとするが、足が動かない。羽居の不思議なやる気と気迫
に気圧されている自分に否応でも気付かされる。
すっと、頭から血が引くのが蒼香にはわかった。
床を踏む足が粘土のように柔らかく感じる。
「ま……まて、羽居」
羽居は蒼香の声にも答えず、枕を盾にしてじりじりと近づいてくる。
その枕で小動物の蒼香を押さえ込んで捉えようとするかのような、羽居の構
え、その顔は笑いとも興奮とも付かない不思議な表情を浮かべ、目は熱く蒼香
を見つめている。頭一個背が高い羽居の接近にプレッシャーを感じる蒼香。
クラブの通路などでもっと背の高く、体重も腕力もあるオトコに迫られ、そ
れを撃退したことも蒼香にはある。だが、羽居はそんなオトコの欲情に満ちた
下卑た力と異なる、異質な力のオーラを放っていて――それは蒼香を怯ませる
モノであった。
そう、こうなってしまった羽居が蒼香にはどうしても敵わないのであった。
「飲むの……蒼香ちゃんの……」
その言葉を繰り返し、羽居は近づく。
羽居が放っているのは、襲いかかり犯そうとする害意ではなく、大型犬が容
赦なく抱きついてくるようなパワフルなスキンシップを求める好意である。た
だ、それのベクトルが変な方を向き、量も過大であり、蒼香には捌ききれるも
のでもない。
そう言うのは、蒼香の苦手とする相手だった。
むしろ犯す気いっぱいの方が相手にしやすい。だがこんな尻尾を振ってじゃ
れついてくるセントバーナードのようなのはいかんともしがたい。
「だって蒼香ちゃんのだから……」
「よせ、羽居……」
そんな羽居が、真っ向から蒼香に向かってくる。
じりじりと近づく羽居に、蒼香は生唾を飲んで手を突っ張り、へっぴり腰の
態勢で押しとどめようとした。いつもの凛々しく逞しい蒼香が嘘のようだった。
手をぷるぷる振っている蒼香に、枕が間を詰めていく――
「うわぁぁ!」
「蒼香ちゃぁぁぁんー!」
《つづく》
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