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きぬぎぬの別れの後、逢瀬の気だるい余韻に身を委ね、アルクェイドの部屋
から月に見送られるようにして歩いてきた。
時刻は、すでに深夜というよりも夜明けの方が近い。
帰りついた遠野の邸。見上げると、一つだけ灯りの点いた窓があった。東館
の二階、そこは…。
「起きているのか?…秋葉」
−−体の奥に感じた鈍い疼き。心の隅にまとわりついて離れぬ微かな罪悪感。
それは、どこか残尿感に似ていた。
「残尿感」 もとはる
朝食の席で顔を合わせたら、またひとしきり小言を聞かされるのではないか
という懸念は、しかし杞憂に終わった。しおらしく、普段より30分近く早め
に起床してきた俺を迎えたのは、いつになく上機嫌な様子で言葉を交わす秋葉
と琥珀さんの姿だった。
「おはようございます、兄さん。琥珀とも相談していたんですけど、今日の晩
は内々の夕食会にしようと思うんです。最近、私も学校の行事に時間をとら
れて、夕食は兄さんとすれ違いということも多かったですし。いつもより少
し豪華な料理を楽しみながら、邸の者だけでゆったりと過ごすのもいいかな
って考えたんです。あとは兄さんの御都合さえ良ければ…」
「あ、ああ、問題ないよ。いつもより…豪華って…どんなのが並ぶんだろう、
楽しみだなあ」
昨夜から、どこか後ろめたい気持ちを振り払えずにいた俺は、ふたつ返事で
承諾をした。
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夕食会のメニューは中華料理だった。俺の目には満漢全席にすら見える。
なんでも琥珀さんが、日本では滅多に手に入らない食材をさる筋から分けて
もらえたとかで、最上級のアミガサ茸だの、四不象の舌だのという珍味を賞味
することができた。一通り平らげ、満腹感に浸っていると。
「えへーん、志貴さん。でも今日の本当の目玉はコレなんですよぉぅ」
チャイナドレスの琥珀さんが、お茶を運んできた。
「烏龍茶…だよね?」
注がれたそれは、いつも俺がペットボトルで飲むような茶褐色ではなく、緑
茶の黄色味をぐっと増したような澄明な色合いを湛えていた。
「へえ、本式の烏龍茶って、色からして違うんだ」
その黄金色の液体は、烏龍茶に対する俺の認識を完全に打ち壊し、全く別の
形に再凝結させるだけの衝撃を備えていた。
「う…お、おいしいッッ」
「あはー、一摘みン万円という特別な茶葉を調達し、お湯の温度や、淹れ方も
ちゃんと研究したんですからぁ」
「こ、琥珀さん。おかわり、おかわり」
有間の家は茶道の師匠だったからきちんとした抹茶がどんな味わいかはよく
分かる。遠野の家に来てからは上質な紅茶を嗜む楽しみも覚えた。そして今…
瑞々しい緑茶が未だ固い蕾の乙女だとするなら、香り高い紅茶は成熟した濃
厚な色香を放つ大人の女性、そして烏龍茶こそは、性の悦びを知りはじめた少
女だけが持つ、時にあどけなく、時に驚くほどに妖艶な、揺れ動く二面性を備
えた蟲惑だ…なんて。
ああっ、なんだか至福。顔がほころぶ。とびきりの烏龍茶の味わいも手伝っ
てか、食卓を囲んで会話も和やかに弾んだ。
秋葉も、次々と茶碗を空にする俺の姿を眼を細めながら窺っては、微笑を浮
かべている。
「あっ、琥珀さん。おかわりは充分、もうお腹いっぱいだよ」
「だめですよー。おかわりがいらないときは茶びんの蓋をちゃんとこうして…
サインをするのが礼儀なんですから。はい、そういうことでもう一杯どうぞー」
しかたなく俺は、もうタポタポといいそうな胃の腑に最後の一杯を流し込む。
心地よい苦しさ半分の充実した満腹感の中で、夕食会は幕を閉じた。
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夜半。穏やかな眠りは、下腹部から沸き上がってくるアラートにより中断さ
れた。
うッ、夜中に目が覚めるなんて、こりゃ調子に乗って烏龍茶を飲みすぎたか
な。夕食後の酩酊感にも似た心地よさに、ベッドに横になりそのまま寝入って
しまったし。烏龍茶には強力な利尿作用があるっていうの本当だな。
気が付けば、俺の膀胱はパンパンに張り詰めた状態だった。
ブルルッ。部屋の外に出て感じた寒気が、さらに欲求を切実なものにする。
トイレの前まで来た時には、我知らず小走りになっていたほどだ。
ドアノブを掴んで捻る、、、おや?動かないぞ。
その時、はじめて扉に貼ってある紙に気が付いた。
「修理中です」
う、うわぁぁぁ。そんな、いつの間に。トイレの前までたどり着いて一瞬緊
張が緩んだせいもあって、欲求はより深刻なものになっていた。
くるり回れ右。走る。三段抜かしで階段を降りる。ならば一階の、一階のト
イレ…。
墨痕淋漓。「ごめんなさい。修理中です」
く、くわわっ。今のはダメージ大きかったぞ。ちょびっと漏れ出たかもしれ
ない。ああっ。すると、こっちの棟は全滅か。
かくなるうえは、庭に出て…いや、鍵のかかった玄関扉を開けるには、かな
りのタイムロスが。思い切って、「線」を切断して突破するか?…いやいや。
そうだ!急角度でターンする。そうだよ、ここから至近、食堂やリビングに
向かう廊下の角に来客用のやつがあったじゃないか。
いまや一歩一歩の衝撃が、俺を確実に追い詰めていく。ほんの僅かな距離、
廊下を駆けることすらもどかしい。背後に迫る怪物の息を感じながら、どこま
でも続く暗黒の回廊を走る、そんな悪夢の中に取り篭められたかのようだ。
着いた! やった、やったよ俺。我慢した、よく我慢したよ俺。
貼り紙は…無い。ノブも…回る。勢いよく開けた。飛び込んだ…
そこに… 秋葉がいた。
嫣然と微笑み、抱きしめるがごとく両腕を差し伸べてくる秋葉が。
「兄さん、お待ちしておりました」
虚を衝かれた俺の頭の中は、完全に真っ白だった。
立ち尽くす俺の首筋を秋葉の指が撫で上げ、頬を包みこむようにして進み、
耳の後ろからぼんの窪へと廻される。
秋葉の紅い唇が意思を持った椿の花の花弁のように目の前で妖しく動き、
言葉を紡ぐ。
「うふふふ、さあ…」
後頭部に冷たい痺れが広がる。視界の隅から靄が立ち上る。次の瞬間、まっ
たく唐突に、俺の意識は白い闇に墜ちた。
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じゃらら… じゃららら…
迸るように取り出し口から溢れ出るコイン。スロットマシンに並ぶ「777」
の表示。噴水のような金貨の奔流に半ば体を埋め勝ち鬨を上げる、俺。
バニースーツの琥珀さんと翡翠が、シャンパンをかけて祝福してくれる。
あはは、あははははは…。開放感と歓喜。やったよ、これで何でも思いのま
まだ。これで、秋葉にお小遣いねだらなくても…なんでも…
じゃらら… じゃららら…
意識が急速に醒めた。夢か…まあ、夢だよな。
じゃらら… じゃららら…
けれど、聞き慣れぬ金属音は続いている。何の音だろう。それに未だ地に足
の着かない、宙に浮いたような気分のままだ。
「ようやくお目覚めですか?兄さん。まあ、お寝坊はいつものことですけど」
揶揄するような秋葉の声に、完全に覚醒する。そして気付いた、自分の置か
れている状況に。
何も見えなかったのは、眼を閉じていたのではなく、真っ暗な部屋で床を見
つめていたせいだ。
宙に浮いたような気分だったのは、気のせいではなく、正真正銘宙吊りにさ
れていたせいだ。
聞き慣れぬ金属音は、もちろんコインの音などでなく、自分を拘束する手枷
の鎖が体を揺らす度にたてる音だ。
俺は噂に聞いていた邸の地下室で、爪先がぎりぎり床に触れるその位置で、
両手に嵌められた枷から伸びる鎖によって、天井から吊るされているのだ。
しかも、全裸で。
「あは…秋葉、これはいったい何の冗談…?」
冗談ではなかった。眼を見れば分かった。夕食会の席での和やかな表情は欠
片も無い。
秋葉は、腰掛けていたソファからゆらりと立ち上がり、肩に掛けていた赤い
襦袢をさらりと床に落とす。現れたのは一糸纏わぬほの白い肢体だった。
一度も陽の光を浴びたことのない白蛇のような肌。それが文学的修辞などで
なく、現実に存在することを疑問の余地無く教示する魅惑の裸体。
爬虫類の鱗のように、てらてらと妖しく灯火を照り返す滑らかな腹部の線。
鎖骨が作り出す微妙な明暗。ほのかな繁みにまとわりつく陰影。
小ぶりながらも絶妙な形に膨らんだ乳房。その先にツンと立つ桜色の乳首は、
クチナワの紅玉の瞳さながら睨み返してくる。
ゆらゆらと揺れながら音も無く近づいてくる細く引き締まった女体は、鎌首
をもたげたオロチそのものだ。
秋葉の腕がするすると俺の首に巻きついてきた。
視界の隅で、真っ赤な舌がチロチロと頬から耳たぶまでをねぶるのが見えた。
そして、吐息とともに吹き込まれてくる粘度すら備えた言葉。
「これからどうされるか、わかりますか?兄さん」
正中線を戦慄が駆け抜けた。
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そうして一度だけ甘やかに抱きしめた後、秋葉は乱暴に俺を突き離した。
見た者を石化するメドゥーサのごとき瞳で、俺をひたと見据える。取り付く
島のない、恐いくらいに冷えた視線だ。
「兄さんが悪いんですよ。規則を守らずに、何度も朝帰りをされたり。どこか
ら現れたとも知れない卑しい血の輩と親しげに交際し、遠野の家の品位を貶
めたり。
当主として、もはや見逃しておくわけには参りません」
「い…いや、それは」
「私はそのことを何遍忠告したかはお分かりですよね。言葉で言って判っても
らえないなら、今度は体の方にお話をするしか無いじゃありませんか。
私もこんなこと本当は不本意なんです。でも、兄さんのためなら心を鬼に
もできます。仕方ありませんよね」
「あ、秋葉っ。ほら…まんざら、俺だけが悪いって訳ではなく…むしろ面倒に
巻き込まれた被害者っていう見方も…」
「へえ、言い訳なんてされている余裕があるんですか?兄さん」
その言葉で気が付いた。今まで遮断されていた感覚が意識に這い登ってくる。
そうだ。通奏低音のように感じ続けていた耐え難い尿意。一度意識された途
端、それは巨大なドラムの響きのように思考を鳴動させ圧迫しはじめる。
「あの、秋葉…おしっこ行きたいんだけど」
「許しません」
「ゆ、許しませんて…」
「まだ、お解かりになりませんか?これは罰なんです。
まずは、尿意を我慢することが想像を絶する拷問であることを骨の髄まで
理解していただきます。まさか、可愛い妹の前でいけしゃあしゃあと放尿が
できるほど厚顔無恥ではありませんよね、兄さんも。
でも、最後には必ず限界は来ます。その時は、そこにある金盥に可能な限
り音高くお漏らししていただきます。
そうして男としての矜持を木端微塵に砕かせていただきます。
二回目からは、この『親指トム』の改良版で陰茎を締め上げ、強制的に排
尿を停止します。
ご安心ください。日を経るごとにだんだん楽になりますよ。なにしろ今日
からは、しばらく水も食べ物も与えません。喉が渇いた時に、兄さんがどう
してもとおっしゃるなら金盥の中のモノだけは飲ませて差し上げますけど。
うふふ…1週間も経てば、従順で物分りのよい真人間が一人誕生という寸
法ですわ」
冗談だろう?いや、こんなの絶対冗談に違いない。頼む、冗談であってくれ。
怯えた俺の視線を捕らえて、秋葉の紅い唇がきゅぅぅっと釣りあがる。けれ
ど目はまったく笑ってはいない。
世界で一番敵に回してはいけない相手を怒らせたのだということを、ようや
く俺は氷点下の確信とともに悟った。
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「さっきは、どうしてこうも簡単に意識を失わされたのか解かりますか?
これが私の遠野の血の力、『略奪』なんです。対象となるものから熱を奪
う能力。完全に引き出せば、肉体を瞬間凍結して粉砕することさえできるは
ずですけど…そんな乱暴な使い方をしなくても、僅かな力でいろいろと役に
立つんですよ。たとえば、こんな風に…」
秋葉の指が俺の後頭部に触れる。たちまちトイレで気絶させられた時のよう
に、白い闇が静かに打ち寄せはじめる…寒い…
「ふふふ。兄さんの肉体の基幹となる器官。不随意運動を司る部位から、少し
だけ熱をいただいて不活性にしたんです。
体内の視認できない部分ですし、加減もなかなか難しいけど、兄さんにな
らできるんです。だって、兄さんの身体で私の指が這っていない場所なんて
ないですから。眼を閉じていたって、中まで正確に思い描ける身体ですから。
なんでしたら、このまま夢に落ちるかのように逝かせてあげることだって
できるんですよ。でも…」
…白い闇が引いていった。
「ごめん、秋葉!ごめんなさい、俺が悪かった、謝るよ。だから…」
「いいえ、許しません。兄さんは、まだ本気で悪かったとは思っておられませ
んから。それに、犯した罪についてはきちんと罰を受けてもらわなくてはい
けません。
では、今度はこちらから熱をいただきますね」
冷気が励起された。肌の外ではなく、内側から。腹の底が冷えるとは字義通
りこのことだ。
今、俺の身体をサーモグラフィを通して眺めたら、橙色の人型の輪郭のなか、
臍のあたりを中心とした黒色から藍色にかけての等高線が浮かび上がるだろう。
極度の緊張に火照り、俺の顔は脂汗を流している。だが俺の下腹部だけは、
まるで氷嚢に変わったかのように冷やかだ。その感覚がぎりぎりと罠のように
窄まり、俺を追い詰める。不自然な寒気は、まさに忍耐不能の猛烈な尿意を喚
起した。
「う、うぃぐっ。ひぃぃぃ、しぃーーぃぃ」
まるで歯痛を我慢する時のような声を上げ、息を吸い込んで必死に耐える。
「兄さん。そういう時は、腹式呼吸が役に立つんですよ」
「ハッハッフー、フーフーハーーッ」
藁にも縋りたい思いで、出鱈目にそれらしいことをしてみる。
「うンふふふ。全然ダメ。フーフー吹くならラッパになさった方がいいわ。私
のためにファンファーレでも吹いてくださいな。
そうですね、ではもっと実際的な方法を教えて差し上げます。医学の本で
読んだところでは、殿方の陰茎の根元には、膀胱からと陰嚢から、二つの管
の接続を切り替える分岐点があるそうですね。
つまり、陰嚢からの管が接続されている間は、したくてもお小水の方はで
きない…」
秋葉がひときわ淫蕩な笑みを浮かべ身体を摺り寄せてきた。
「兄さん、我慢するの手伝って差し上げます」
《つづく》
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